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ミシェル・ドゥギ─『与え合う──詩集1960─1980』(Michel Deguy, Donnant Donnant: Poème 1960-1980, Gallimard, 2006[未訳])|星野太 2007年04月30日

ミシェル・ドゥギ─(1930─)はフランスの詩人・哲学者として知られている。だが、その2つの呼称によって彼の多面的な活動を語りつくすことはほとんど不可能だろう。詩と散文からなるその著作数はすでに35冊におよび、現在までの肩書きはパリ第8大学教授、国際哲学コレ─ジュ学院長、フランス作家協会会長、雑誌『ポエジ─』編集長、『レ・タン・モデルヌ』編集委員と極めて多岐にわたっている。また、ハイデガ─およびパウル・ツェランの仏訳者であるほか、ジャック・ルボ─とともにアメリカの詩人のアンソロジ─を編集し、クロ─ド・ランズマンとともに『ショア─について』という著作を発表するその活動の多彩さは、まさしく「フランスのモラリストの巨大な伝統」へと連ねるにふさわしい★1。

deguy

Michel Deguy,
Donnant Donnant:
Poème 1960-1980

「ポエジ─」叢書の1冊である本書は、ドゥギ─が1960年から81年にかけてガリマ─ル社から出版した詩集を年代順に収めたものである。ドゥギ─の詩を集めたアンソロジ─はこれまでにも3度にわたって出版されているが、全体にして440頁に及ぶ本書は、『地籍の断章』(1960)から『与え合う』(1981)までの9冊を網羅的に収録しているという点でとりわけ意義深いものである。ドゥギ─自身が本書序文において述べているように、彼が著作活動を始めた1959年から85年までの時期というのは、いわばこの作家にとっての「最初の跳躍」の時期に当たる(p.18)。にもかかわらず、この時期の詩集は従来アンソロジ─として断片的に再録されるに留まっており、なかには現在入手困難なものも少なくない。そうした点からも、本書によってこれらの初期詩集がオリジナルに忠実な形で再録されたことの意味は大きいといえる。

ところで、本書のタイトルである『与え合う』(Donnant Donnant)とは1981年に発表された同名の詩集から取られたものであり、直訳すれば英語で言うところの〈give and take〉にあたる。とはいえ他方で、ドゥギ─がこの言葉にさらに広い射程を与えているということを見落としてはならないだろう。曰く、「これ[Donnant Donnant]は単に契約の際の決まり文句であるだけでなく、〈与えるものを与え、さらに与えよ〉という詩そのものに対する命令なのである」(p.16)。つまりドゥギ─にとってこの言葉は「詩」(poésie)そのものの本質に少なからず触れる言葉なのであり、彼の詩学について考えていこうとするならば、われわれはこの「与えること」(donner)および「贈与」(don)という主題に突き当たらざるをえない。

土地の名や、それにまつわる固有名が次々に召喚される『与え合う』という詩集は、一見「旅」を主題とする詩集であるかのように読める。実際そうした読み方は可能であるが、他方でそこに伏在する「贈与」のモティ─フを見逃してはならないだろう。冒頭の「アナポリスの近く、午後の終わり」にはピリオドなしに綴られる次のような長い一節がある(以下の試訳においては便宜的に「/」を用いて文章を区切る)。「旅から残ったもの──何かを目ざしてはいるが、つねに予測に反するもの/そう、旅は起こった、あやうく破局を免れながら/だがそれは帰路のなかで、帰路に至るなかで失っているのだろう/抑圧されたのではなく、失われたものを/無意識からでも喪失に対する関心=利益からでもなく/そしてそれゆえにこそ、回帰するもの[=亡霊]は、期待を持たぬがゆえに[=無への期待ゆえに]、贈り物[cadeau]となるだろう[……]」(p.377)。「旅から残ったもの」は、それが失われ、なおかつ失われたということに対する関心=利益なしに回帰するものであるがゆえにこそ、「贈り物」と呼ばれる。さらに別の詩篇に目を移そう。そこでは「与え合う」ことが、「取引なき交換」(échange sans marché)であると言われ、その「使用価値」が「贈与の交換」以外のものではありえないような「比類なきもの」(des incomparables)に満ちた場であると述べられる(p.419)。しかしこれは逆説的なことではないだろうか。「与え合う」ことは通常、「等価交換」(give and take)のもとに成り立っている。しかしここではそれが、「比類なきもの」(=比較─不可能なもの/in─comparables)に満ちた「贈与の交換」であると述べられているのだ。だとすればむしろドゥギ─における「贈与」という行為は、それが〈give and take〉という等価交換をそのつど失効させる行為である、という逆説的な事態を意味することになる(ちなみに本書の英訳は、〈give and take〉の意味を避けて〈Given Giving〉と題されている★2)。

こうした「贈与」にまつわる思考をドゥギ─と共有していた人物のひとりとして、ジャック・デリダの名を挙げることができる。その卓抜な贈与論『時間を与える』★3の末尾でドゥギ─の詩篇を引用するデリダは、上記のドゥギ─と同じく「贈与」を「エコノミ─を中断するもの」であると規定している。通常、何かを与えることはつねに「返礼」を要請する。しかも、それは必ずしも具体的な事物であるとは限らない。何かを与えるということは、たとえそれに対する具体的な返礼が生じない時でさえも、「与えた」というその事実によって心理的な「反対贈与」を受けているのだ。したがって、仮に「純粋な贈与」があるとするならば、それは与えられる側にも、与える側にさえも気づかれることなく生じるような「不可能な贈与」であるということになるだろう。とはいえ、そのような「純粋な贈与」について思考することは一種の形而上学に陥ることにもなりかねない。だからこそドゥギ─はそうした「不可能な贈与」ではなく、互いに「与え合い」ながら、そのつど「共通の尺度」を失効させていく非─エコノミ─的な「交換」について思いをめぐらせるのである。

だが、一体それはいかにして可能になるのだろうか。ドゥギ─が言うように、〈Donnant Donnant〉という表現は確かに取引が成立する際の「決まり文句」として流通している。しかしその一方で、すでに見たようにドゥギ─はこの表現に「取引なき交換」の可能性を見出してもいる。おそらくこの2つは根本的に性格を異にするものではない。実際、一口に「取引」と言っても、それがしばしば不均衡な交換となるような場面は(現実的な話として)いたるところに存在しているだろう。たとえば(上記のデリダの立場と必ずしも一致するわけではないが)、ドゥギ─における「贈与」の問題を考える際に避けることができないのは、まずもって「誇張」の問題である。というのも、「贈与」が等価交換のエコノミ─を超えて「比類なきもの」へと転じるためには、そこに「与えるものを与え、さらに与える」という一種の「誇張」が介在することが不可欠だからだ。通常、「交換」というエコノミ─を作動させているはずの贈与という行為は、それが極限に達し、反対贈与が不可能になるような場面において逆説的にもエコノミ─を断ち切る行為へと姿を変える。「与え合う」という行為は、限度を超えた取引の場において通常の平穏無事なエコノミ─を逸脱する可能性をつねに内包しているのであり、過剰な交換の中で「比類なきもの」へと高められた贈与は、その絶頂の瞬間に、まったく逆のものへと転化するのである。

興味深いことに、この詩集が発表された数年後にドゥギ─は古代ギリシアの偽ロンギノスによる『崇高について』の読解を雑誌『ポエティック』に発表している。1980年代前半、ドゥギ─が編集長を務めた『ポエジ─』誌には「崇高」をめぐるテクストが頻繁に掲載されることになるのだが、その中心となって偽ロンギノスのテクストをもっとも精密に読み直した人物こそ、ドゥギ─その人にほかならない。そして『与え合う』とロンギノス論(「大─言」)の双方にまったく同じ一節が登場することからも窺えるように、偽ロンギノスの崇高論はこの時期のドゥギ─の思考に少なからぬ影響を及ぼしているように見える。『崇高について』──ドゥギ─はこれを『高みについて』(Du haut)と翻訳しているが──のなかには、崇高なるものを支える比喩形象が「その輝きによってみずからの姿を隠す」と述べる一節がある。ここで、ドゥギ─にとっての「贈与」もまた、高まりによってみずからを真逆のものに変えるという「誇張(法)」(hyperbole)に従っていたことを思い出そう。ある事物がその絶頂においてまったく逆のものへ変わるという「崇高なるパラドクス」(p.20)──ドゥギ─はそれを、垂直的な「超越」(transcendance)の運動と区別して「パラボリック(parabolique/放物線状=寓話的)な超越」と呼んでいる(p.13、21)。そう、「高み」は確かに存在する。しかしその頂点で待ち構えているのは、形而下の世界を突き抜ける垂直的な「超越」ではなく、放物線状の軌道を描く落下の始まりなのだ。ヴァントゥ─山での滞在をもとに書かれた詩篇(pp.416─419)と、ロンギノス論の双方に登場するのは、まさしく次のような一文なのである──「頂上に出口なし」(Le sommet est sans issue)。





★1──梅木達郎『支配なき公共性』(洛北出版、2005)56頁。なお、現在日本語で読みうるドゥギーのテクストとしては『尽き果てることなきものへ』(梅木達郎訳、松籟社、2000)、「大─言」(『崇高とは何か』所収、梅木達郎訳、法政大学出版局、2001)、および『現代詩手帖』30周年特集版「総展望フランスの現代詩」(思潮社、1990)に収録されている詩篇の抄訳などを挙げることができる。
★2──Michel Deguy, Given Giving, trans. Cl. Eshleman, U.C. Press, 1984.
★3──Jacques Derrida, Donner le temps, Galilée, 1991.



星野太 Futoshi Hoshino
1983年生。美学、表象文化論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。論文=「質料の感覚──リオタールにおける内在的崇高のアポリア」(『UTCP研究論集6』2006)、「崇高なる共同体──大杉栄の「生の哲学」とフランス生命主義」(『表象文化論研究6』2007[掲載予定])など。共訳書=エイドリアン・フォーティー『言葉と建築──語彙体系としてのモダニズム』(坂牛卓+辺見浩久監訳、鹿島出版会、2006)。


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