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蓮實重彦『スポーツ批評宣言──あるいは運動の擁護』(青土社、2004)|大橋完太郎 2006年09月06日

ワールドカップが終わって間もないというのに、人々はもう、フットボールのことなど忘れてしまっているかのようだ。少なくとも、前回の極めてローカルなワールドカップと比べて、その温度差は歴然たるものだと言える。実際、4年前の今頃ならば、金髪碧眼の貴公子デービッド・ベッカムに代って、トルコの少しばかり不良然とした青年がメディアのうえで賞賛され始め、彼がTVCMのなかでアイスクリームを練っている様を目撃したりもしていた。人々は、「黄金の4人」というキャッチフレーズに目を輝かせ、フランス的(植民地)管理体制からの解放の願いを、ブラジル出身の「神様」に無邪気に託したりもしていた。繰り返しになるが、4年前のイヴェントは極めてローカルなものであった、と言わざるをえない。あの熱狂、「祭りの後」にまでたなびいて人を支配していたあの熱狂は、4年後の今日には一切影を潜め、私たちには「祭りの後」を楽しむことさえ許されていないかのようだ。言い換えよう。結局、この国には「フットボール」など存在していなかったし、きっとまだ、ほとんど存在していない。4年前の熱狂という成果は、それが「地元」で行なわれた「祭り」に端を発するものであったからに過ぎない。結局、田舎祭りにおいては、フットボールなど重要ではなかったのだ。

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蓮實重彦
『スポーツ批評宣言──
あるいは運動の擁護』

2年前に出された蓮實重彦の『スポーツ批評宣言』は、サッカー批評が約半分の分量を占めながらも、それが2002年ワールドカップの約2年後に出版された、という事実からして、見事に祭りの後を引き受け損なっている。このレヴューも、さらにその2年後に稿を連ねることで、その引き受け損ないを少しばかり引き受け損なうことにしよう。思えば、批評とは、常にある仕方で、対象を引き受け損なうことなのかもしれない。それでもなお、この書についていくばくかを述べる意義があるとすれば、著作中の蓮實重彦の言説のなかに、結局のところスポーツ、あるいはそれに類するものでありながら、狭い意味でのスポーツを超えるような「スポーツ的なるもの」についての、なおも含蓄豊かなテーゼが示されているからだ。ベルクソンやスピノザを引き合いに出しながら、蓮實はスポーツジャーナリストが選手のプレーを「気持ち」に還元させてしまう傾向に対して苛立ちを顕わにし、その理由を次のように述べている。

「人類は『運動』が嫌いなのであり、とりわけ日本のジャーナリストたちは、無意識のうちに『運動』が嫌いな人類の代表として振舞ってしまうからです。こうして彼らは、『運動』好きの選手たちを、『運動』嫌いな人類の側に何とか引き寄せようとする。結果は数字になるけれども、『運動』は数字にならないからです。運動にあるのは、持続にほかならず、結果としてのその軌跡には到底還元されがたいものです」(p.11)。

ここで言われている「数字への還元」とは、別の言い方をすれば歴史的なコードによる置換でもあり、それによって、行為=運動のはらむ異質性は、あくまでも中性化され、極めて凡庸な「結果としての軌跡」、すなわち物語へと回収されてしまう。知識人、あるいはマス・メディアに代表される知識階級は、このようにして、運動するものを手なずけ、骨抜きにしてしまう。理性による弁証法的な運動があらゆる異質なものを歴史へと止揚していく中で、結果的に「理性的でない」とみなされる運動は、排除されることさえ許されない。それは、ただ、なかったかのごとく抹消されるだけだ。

楽観的な「神様」が去り、白鯨を追い続ける老獪な船長を思わせる東欧の巨漢が次世代の日本人たちに示したテーゼは実に味気ない。彼は言う、「考えて走らねばならない」と。ここで、極めてシンプルに提示されたこの「考えて走る」という命題が持つ重みを、もう一度考えて見る必要があるだろう。それは、熟慮の果てに、「よーい、どん」で目標に向かって走る行為ではない。考えることと走ることは、ここではいかようにも分離されてはならない。いかなるreadyもなく、いかなるsetもなく、いかなるgoサインもない無秩序な空間で、分子と化した人間が高速で走り回る。おそらく「フットボール」とはそういうものだ。ボールを中心に与えられる刺激をもとに、インパルスが走り、22個の細胞組織が、刻々とその統一性を変質され、不定形にうごめき続ける。そこでは、意識ともいえない意識からくみ上げられた挙動の一つひとつが、あるいは局面を打開し、あるいは「勝利」を決定付け、あるいは、蓮實が言うように、「美しい」興奮を与えることだろう。カーニバルの瞬間は、おそらく、分子的身体が搾り出す極めてミニマムな挙動からしか生じてこない。こうした瞬間を実現するものを、今福龍太流に言うならば、「ラテン的な身体性」ということになるだろうか(そういえば、後期のデリダも、ラテン的な合理性 ratioの可能性に賭け金を投じようとしていた)。結果としてのゲームに勝つことなんて、束の間浮上したモービィ・ディックに、たかだか銛を数本打ち込むほどのことでしかない。それでも人は、そのときを待望するともなく待望しつつ、「考えて走」らねばならないのだろう。知性があまりに目的論的になりすぎたときには、フットボール的理性批判を行うべきだ。欲を言えば、「批判」とか「べきだ」などという概念を超えたところで、自在に無目的に突っ走ることが、知性にとっては相応しい。

若い肉体の瞬発力を失って久しいルイス・フィーゴが、ボールを抱え込むような体勢でボールと一体となって走りながら、意識の最深奥から導き出されたような仕方でわずかに肩を上下させ、首をまわし、目配せを行なうと、彼を囲んでいた敵陣の肉体の壁は割れ裂け、そこにはいつしか進むべき道ができあがっている。あるいは、アリエン・ロッベンが、陽気な小学生のようにおどけた仕草で身を翻したとき、彼はすでに、それまで誰も気づかなかった無限の空間の只中へと身を躍らせてしまっているし、そう思っているまもなく、またもや彼はすでに、嬉しそうにボールを蹴りだしながらゴールへと向かっている。けっして十分には言説化されえないこれらの「運動」と重ね合わせながら、最小限の存在でありながらも、しかし最大限の効果的速度を伴った知性が、歴史化されつつあるプロセスに内在するモメントを局所的に刺激し続け、大局に影響を及ぼすまでに至ることを夢想することは、近代的な理性にとって、果たして苛烈な要求に過ぎるだろうか。自分としては、生成変化の契機としてのフットボールを信じてもよい気にはなっている、フットボールは「大人を少年にし、少年に知性を与える」ものなのだから。


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