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映画『ラストデイズ』(ガス・ヴァン・サント監督、2005)|門林岳史 2006年07月26日

森を抜けブレイクが辿り着くゴシックめいた屋敷は複数の局所的空間の集合であり、けっして全体としてひとつの統合され構築された空間を呈示することがない。それは適切に迷宮の形象である。さまざまな動機からこの迷宮に引き寄せられてくる匿名的な人間たちはこの空間を部分的に横切るのだが、中断されてはまた再開されるこれらの動線はいっこうにこの屋敷の空間的構成を俯瞰するパースペクティヴを与えてはくれない。まるでブレイクの虚ろな足どりのみがこの迷宮を通り抜ける術を知っているかのようだ。だが、通り抜けた先に彼を待っているものがなにか、観客はあらかじめ知っている。

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『ラストデイズ』
(ガス・ヴァン・サント監督)

映画『ラストデイズ』(ガス・ヴァン・サント監督、2005)は、グランジ・ロックのカリスマ、カート・コバーン(ニルヴァーナ)の若き死に着想を得た作品である。才能と名声の絶頂のなかで自己崩壊していくロックスター、主人公ブレイクが森のなかの館で過ごす最期の2日間を描く画面は、長回しのショットを多用し、それらを時間的なずれを孕ませながらオーヴァーラップさせていくことにより構成されている。ナラティヴを極限まで切り詰め、ただ映像と音だけを緻密に展開していくことによって呈示される空間性は、端的に美しい。しかし、私はその美しさを前にしてある戸惑いを感じずにはいられなかった。説明的なカット構成やナレーションを排除し、むしろ意図的に時間軸を錯乱させることで画面上に複数の空間性を生起させる、その狙いはひとりのロックスターの死を悲劇的なナラティヴに回収せずに物質的な出来事そのものとして提示する点にあると要約することができるだろう。しかし、それは結局のところ、出来事の崇高性を美学的に顕揚したうえで再消費することでしかないのではないか。

90年代前半にハイティーンを過ごした私は典型的なニルヴァーナ世代である。しかし、音楽にどっぷり浸かっていたはずの当時の私は、不思議なことにまったくニルヴァーナに興味を持てなかったし、むしろ軽蔑の情すら抱いていたことを明瞭に覚えている。なぜそうだったのか、その理由を緻密に検証することにさしたる意義はないが、この映画に覚えた戸惑いを事後的に自己分析して腑に落ちたことがひとつある。それは、ニルヴァーナという運動が、ロック・ミュージックがその初期にオルタナティヴな運動として持ちえたタナトス的な力の再演にほかならなかったということだ。しかし、このロックスターの悲劇は、それが再演である以上、喜劇的な性格を伴わざるをえない。ユース・ジェネレーションと結びついたロックというジャンルの反社会性がコマーシャリズムに取り込まれていくことは、ニルヴァーナの時代にはもはや目新しさのない白々しい喜劇であった。カート・コバーンの悲劇はこの喜劇性のうちにこそあり、そこへの明察を欠いた悲劇の再提示は、どのようなかたちであれ欺瞞から自由ではありえないのではないか。出来事はつねにすでに消費社会に横断されている。作品として呈示された出来事を横切る諸力を読解する繊細さはそれを観る者に委ねられている、とそう述べることはたやすい。しかし、そこでなおも出来事の神格化を拒むためになにが必要とされるのか、私たちはあらためて問わなければならない。



門林岳史 Takeshi Kadobayashi
1974年生。表象文化論・メディア論。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程修了、日本学術振興会特別研究員。言説の認識論的な布置を 同時代の科学技術や文化との関わりから分析することを主な研究のフィールド 及び方法としている。論文=「G・Th・フェヒナーの精神物理学──哲学と心 理学の間、精神と物質の間」、「メディアの幼年期──マクルーハンのテレビ 論を読む」、「探偵、バイオメトリクス、広告──『マイノリティ・レポー ト』に見る都市の時間と空間」など。http://homepage.mac.com/kanbaya


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