岡田温司による『マグダラのマリア──エロスとアガペーの聖女』(中公新書、2005)は、豊富な絵画資料をもとに娼婦と聖女というふたつの相反するイメージを与えられているマグダラのマリアについて、そのイメージがいかにして形成されてきたのかということを明らかにした書物である。
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岡田温司 |
しかしこの本で見落としてはならないのは、その証明の手際である。ここまで見てきたように、この本の内容を簡単にまとめていくことはきわめて容易である。その程度にこの本は「わかりやすく」書かれている。しかしこの「わかりやすさ」の理由は何だろうか。私はここで、この「わかりやすさ」の由来を考えてみたいと思う。
この本では多くの絵画をメインとして扱っている(少数ではあるがソネットや劇なども分析の対象に加えられている)が、その絵画あるいはソネットの「作者」にそこに描かれるマリアの特性を帰していない点が挙げられるのではないかと私は考える。 むしろたとえば、絵画であるならばあくまでその注文主が誰であるか、どこに飾られたものなのか、ということに注目して書かれているのである。たとえばこの本のなかで、「作者」の意図なるものに注目したと思われる箇所は1カ所しか登場しない。グイド・レーニという16世紀後半から17世紀後半に生きた作家について、「場にふさわしい表現」をわきまえていた作家、と評している。つまり、個人コレクター用か、教会に飾られるものかのどちらであるかによって、官能的に描くか、敬虔な女性として描くかを描き分けていた、とする。そしてその一方で、そのような「適正に」描くということをほとんど無視した画家としてカラヴァッジオを挙げている。つまり、作家の意図というものを考えたとしても、それも依頼主の意図に沿うかたちで挙げているだけなのである(それはもちろんどちらの作家が優れている、という価値判断の問題ではない)。
また、依頼主の意図のみならず、時代の風潮から要請されたマグダラのマリアという点についての指摘も著者は怠ってはいない。先述したティッツアーノが、敬虔と官能性、精神性と肉体性、アガペーとエロスといった相反する要求を、ひとつの画面の中に描き出そうとしたのは、それが16世紀の画家たちのすぐれた力量を測る基準となっていたからだ、と著者は述べている。ティッツアーノの「悔悛のマグダラ」はカラー口絵の第1ページ目に掲載されていることからも、本書にとってきわめて重要な役割を果たしていることは明白である。だがそれすら作者の意図よりも、時代の要請をキーワードとしてこの絵画の意義について著者が明確に述べていることは興味深い点である。
ひとりの作家という個人の意図は、後代から見て判明なものではない。いやもしかするとたとえ今作品を生み出している人にインタヴューなるかたちで作品の意図について聞いてみたとしても、それが研究において何がしかの価値を持ちえるかというと疑問符をつけざるをえない。だから、著者はほとんど意図的に、作者の意図なるものを無視したのではないかと私には思われる。重要なのは作者の意図ではなく、むしろ依頼人の意図であり、その絵が飾られる場所の必要意義であり、時代の要請である。著者は、マグダラのマリアのイメージ形成に、画家の意図をほとんど導入してない。それはまた、画家が誰かパトロンなしでは生活しまた絵を描くことが許されなかった時代ということも理由として忘れてはならないものである。しかしいずれにせよ本書は、「作家性」なるものに作品の意味を還元しないあり方を模索し、それに成功した著作ということができるだろう。それは簡単なようでいて難しい。それは、この私の書評ですら、本書=作品を書いた作者の意図に本書の意義を還元してしまっていることから、その困難さから抜け出せていないということにも、なってしまうのだが。