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ジャン=リュック・ナンシー『イメージの奥底で』(西山達也+大道寺玲央訳、以文社、2006)|森田團 2006年08月21日

「イメージは聖なるものである」というテーゼが、この書物の冒頭に掲げられている。ナンシーは、「聖なるもの」の概念を「宗教的なもの」の概念から区別し、前者の本質を分離され、遠くにあるものとする。イメージは遠くにあるものである。このイメージの在り方の起源を、ナンシーはコスモゴニーに見出す。大地が天空と分離し世界が出来する瞬間にこそ天空はイメージとして出現するのだ。「イメージとはつねに天空から到来する」と言われる所以である。

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ジャン=リュック・ナンシー
『イメージの奥底で』

ただ、イメージが天空であるとしても、大地が存在しなければ、それは出現しえない。〈遠さ〉は大地という〈近さ〉の場と解消しがたく結び合っているからである。ナンシーはイメージの物質性を母=マテリアから解釈しようとしているが、この物質性がイメージの出現にとって必要不可欠な基体であるならば、またここでコスモゴニー的な観点を維持するならば、母=マテリアはなによりも大地とみなされるべきだろう。

ナンシーと同じように、イメージを近づきえない遠さによって規定し、天空(ないしは星辰)をイメージの最たるものとみなした哲学者ルートヴィヒ・クラーゲスは、天空と大地を隔てながらも結びつける力を「コスモゴニー的なエロス der kosmogonische Eros」と呼び、このような力に満たされるときにこそイメージの世界が開かれるとした。ヘシオドスやサッフォーは、エロスを「四肢を萎えさせるlysimeles」という語とともに用いているが、この表現は、眠りや恋情、病気や死などによって、いわば個体性や自我が失われる状態を指示するためのものである。つまり、エロスが引き起こすのは忘我の状態なのであり、そこでこそイメージは体験されるのだ(クラーゲスはエロス的な体験をディオニュソス的な陶酔に比している)。

クラーゲスはイメージがもつ近づきがたさをアウラ(やニンブス)という語によってあらわしていた。ベンヤミンは、この語を用いながら近代における知覚様態について考察したが、あるメモにおいてアウラの原像はわれわれを見つめ返してくる星辰がでないかと語っている。眼差しは、どんなに近くにあろうと近づきえない遠さをもっている点で、イメージの在り方を典型的に示していることを、ベンヤミンは正確に見抜いていた(眼差し、アウラ、イメージの遠さ、そしてそれらとエロスとの関係についてベンヤミンが論じるのは「ボードレールにおけるいくつかのモチーフについて」などにおいてである。ここにベンヤミンのエロス的イメージ論あるいはエロス的想像力論を見出すことができるかもしれない)。

ナンシーもまた、ハイデガーの『カントと形而上学の問題』におけるデスマスクのモチーフを注釈するとき、眼差しの問題に直面している。一見すると、デスマスクと眼差しとの関係は奇妙なものにみえる。デスマスクがもつ眼差しは見つめ返すことのない眼差しだからである。ただ、デスマスクは、身に着けられることがないがゆえに、通常の仮面とは言えないし、その眼差しの在り方も通常の仮面とは大きく異なる。仮面は髑髏のような空虚な眼窩をもつが、その眼差しはいわば瞳なき眼差しである。では、デスマスクがもつ眼差しとはどのようなものだろうか。

デスマスクに刻印されているのは、ある者の眼差しの痕跡――目を開けた姿であろうとまぶたを閉じた姿であろうと――である。この意味でナンシーは、デスマスクとは眼差しの退隠であると述べる。おそらく、この退隠そのものイメージこそが、イメージのなかのイメージであろう。なぜなら、そのときあらわになるのは、イメージの核としての遠さであるからだ。いや、むしろ、眼差しの退隠とは、この遠さがまさに絶対的な遠さへと引いていくことそのものをあらわにするのだと言うべきなのかもしれない。いずれにせよ、デスマスクの眼差しは、髑髏の眼窩のような空虚な眼差しでも生に溢れた眼差しでもない。それはいわば生から死への通路そのもの、移行そのものなのである。

ナンシーは死者の眼差しがイメージの範例であると言う。そうであるならばイメージの核には必ず死が存することになろう。エロスにおいて体験されるのは実は死=タナトスなのだろうか。ナンシーは、死者の眼差しとの関係に想像力の根底を――ハイデガーとともに――見届けようとしているが、「イメージの奥底に」触れるこのような考察は、エロス(そしてタナトス)と想像力の根源的な連関を探るという別の試みによって補完されねばならないだろう。


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