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「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2006 」|柳澤田実 2006年09月11日

大地の芸術祭に行って、自分ばかり車を運転させられて疲労困憊したとしても、35度以上の暑さと湿度を帯びた熱気に攻めさいなまれたとしても、あまつさえようやく辿り着いたアート作品にちっとも心動かされなかったとしても、誰のことも恨んではならない。760平方kmに渡る広大な会場では、一つひとつの作品が散在しており、個々が間隔をあけて設置されていることが少なくない。だから作品を観に来た者たちは、くねくねと蛇行する山道を、車を駆使して移動する必要がある。もし運転免許を持たない人間が大地の芸術祭に行きたいと望むならば、免許を持つ誰かを説得するか誘惑するところから始めなければならない。巡回するツアーバスも出てはいるが、十分に作品を見て回るためには、基本的に車は必須である。自然との共生がテーマの芸術祭ではあるが、車で排ガスを撒き散らすのはやむをえない。なるべく作品の近くに車を停めたら、あとはひたすら猛暑のなかを歩くことになる。作品自体が屋外に設置されていたり、あるいは家屋自体が作品であることが多いため、作品を体験している間も熱い外気にふれ、汗が流れる。そんなわけで妻有では首に手ぬぐいを巻くことの快適さを知ることになる。あまりの暑さに熱に浮かされたようになった状態で作品鑑賞。ひと時の休息。しかし、そこで出会う作品には、強烈な印象を残すものが少ない。妻有のアートは、自然や集落といった環境に寄り添っており、そのせいか自立的なインパクトに乏しい。しかも妙に明るくおめでたい作品が多い。2003年作品のイリヤ・エミリア=カバコフの《棚田》に顕著であるが、普段クリティカルなアーティストたちも、不思議なほどに能天気な作品や、センチメンタルな郷愁を匂わせる作品を制作する。それが大地の芸術祭である。そういえば2000年の芸術祭のオープニングでは高橋悠治の伴奏で、参加者全員で「ふるさと」を合唱したっけ。

カサグランデ&リンタラ

カサグランデ&リンターラ
《ポチョムキン》
撮影:安斎重男

私は2000年、2003年、そして今回の2006年と3回の芸術祭を体験してきた。そして上記のような経験を繰り返してきたわけだが、なんと回数を重ねるごとに、この芸術祭での経験が気持ちよくなっている。洗脳されているのかもしれない。確かにこの芸術祭は、人々を洗脳しかねない強力な「理念」に裏打ちされている。過疎地域の復興、自然との共生、人々との協働等々。作品が作品としての自立性を失うのも、こうした理念が自ずと要請する事態なのだろう。積極的に環境世界との関係に開かれることを求められるため、この芸術祭ではいわゆる著名なアーティストが制作した作品よりも、与えられた条件のなかで最善を目指すことを生業とする建築家やデザイナーが制作したプランが際立っているようにも思う。今回についていえば、例えばカサグランデ&リンターラ建築事務所による《ポチョムキン》という公園が印象的であった。かつてゴミが不法投棄されていた川岸に、白い玉砂利が敷かれ、コールテン鋼の壁を立てられ、ブランコや東屋が配置されている。この空間では、もともと生えていた大樹はその幹のうねりを見事に示していたし、河の向こう岸に埋め込まれたテトラポットまでがポップな彫刻のように見えた。凡庸な言い方で言えば異化効果であるが、かつてのゴミ捨て場だった場所には、極めて「気持ちいい」空間が出現していたのである。この「気持ちよさ」は、善意に満ちた「理念」を凌駕する。私が洗脳されているとしたら、先述の「理念」ではなくこの全体として感じられる「気持ちよさ」のほうだろう。そして芸術祭を支えている多くのボランティアやリピーターもおそらくこの「気持ちよさ」に魅了されているのだと思う。

この「気持ちよさ」を分析することは難しい。ひとまずこの快楽は、身体的感覚のみに帰されるのでもなく(先にも述べたが身体的にはむしろ苦しいことが多い)、認識に帰されるわけでもないと言いたい。この芸術祭が何かのためになされているという目的連関は「気持ちよさ」の前で霞んでいく。よいことをしている、よいことが行なわれているという認識が気持ちよさを生んでいるわけではないのだ。また、この「気持ちよさ」が、優れた芸術作品の前で経験する美的体験とは質を異にすることも付け加えておきたい。「気持ちよさ」は、圧倒的な美を前にした際の鮮烈な印象や震撼とは異なり、もっと穏やかで漠然としている。それは、妻有の芸術祭では、作品の境界が不分明であることとも関係しているだろう。道路標識や店の看板までアート作品に見えてきたというのは、芸術祭を訪れた者たちが頻繁に口にする冗談であるが、個々の作品は周囲の風景を取り込んでいるため、すべての空間がゆるやかに連続し作品をなしている。さらに、この漠然とした「気持ちよさ」は、「祭り」が演出する高揚感とも異なる。これらの「気持ちよさ」には中心やクライマックスがないからだ。ヒエラルキーを作らないために、できるだけ多様なイヴェントがあちこちで毎日行なわれるのは、総合ディレクター、北川フラム氏自身の方針である。その結果、何がどうというわけではないけれど、全体としては「気持ちがいい」という事態が生じた。

大地の芸術祭は、大勢の人々が参与している出来事(イヴェント)であり、全体として、あるいは大局的に「気持ちがいい」。全体、大局という留保をつけるのは、冒頭のディスクリプションに表われているように、細部にこだわったが最後、この芸術祭は一瞬にして不快なものへと変貌してしまうかもしれないからだ。そして、だからこそ、この芸術祭を全面的に肯定することは難しい。芸術祭のガイドブックには「都市の美術は終わった?」というセンセーショナルなうたい文句が掲げられているが、私はそうは思わない。つまりアートの進むべき方向が、この芸術祭のような、人々や自然との関係性に開かれたあり方へと一元化されるべきだとは思わない。しかし、この芸術祭が他に類を見ないと思うのは、これが全体としての「気持ちよさ」を実現しており、その「気持ちよさ」こそ、私たちが未だに何か「よいこと」を目指して事を起こすことができるという希望だと考えられるからである。よいことは全体としては気持ちいい。たくさんの不快なことがどうでもよくなるほどに。この「気持ちよさ」が持つ可能性と危うさとを、大地の芸術祭は体現している。これは、芸術祭の一見牧歌的な相貌とは反対に、大変にラディカルな問いかけであると私は思う。



柳澤田実 Tami Yanagisawa
1973年生。東京大学総合文化研究科博士課程修了。現在、南山大学人文学部専任講師。哲学、キリスト教思想専攻。宗教的経験や美的体験など、従来人間の「精神活動」として捉えられてきた事柄を、行為と環境との相関関係において捉えなおすための方法論を探求している。『SITE ZERO/ZERO SITE』No.1「特集=病の思想/思想の病」では特集企画を務めた。


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