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イアン・ボーデン『スケートボーディング、空間、都市──身体と建築』(齋藤雅子ほか訳、新曜社、2006)|南後由和 2006年11月06日

自身もスケートボーダーである著者のイアン・ボーデン(1962─、イギリス生)は現在、ロンドン大学大学院バートレット建築学校のディレクターを務めている。スケートボーディングという、建築をめぐっては「周辺的な位置」(1頁)にある事象を主たる研究テーマとする研究者が、建築学科の教職に就くことは日本ではなかなか考えられないであろう。

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イアン・ボーデン
『スケートボーディング、空間、都市
──身体と建築』

ボーデンは、スケートボーディングを「建築への批判的な外部(エクステリア)として歴史的な機能をもち得る」(1頁)とし、あくまで本書を既存の建築史・建築論を内破する試みとして位置づけている。従来の建築史が主に建築の生産に関心を寄せ、空間についての言説を紡いでいたのに対して、本書は五感を介した建築経験および身体活動による再生産がもたらす空間・時間・社会的存在としての建築を「物体」としてではなく、社会的、政治的変化を伴った「過程」、つまりは「空間の生産」として捉え返そうとする。

その切り口かつ理論的枠組みとして、ボーデンが全面的に依拠するのがアンリ・ルフェーヴル(1901─ 1991、フランス生)の都市論、空間論だ。事物の転用、時空間の能動的産出、「街を編集し、地図化(マッピング)し、再構成する」(3頁)手法をスケートボーディングに見出すという点では、シチュアシオニストの「転用」「状況の構築」「漂流」「心理地理学」の実践も念頭に置いている。

1960年前後のアメリカ西海岸で誕生したスケートボーダーの大半がサーファーであったことはよく知られているが、ボーデンはサーファーであった彼らが、「第二の自然」としての建築をコンクリートの海および波と読み替え、都市を再定位する身振りを鮮やかに描写している。たとえば、スケートボーダーにとって、都市はある纏まりをもった建物群としてではなく、壁、ガードレール、階段、縁石、手摺り、塀などのエレメントの組み合わせとして立ち現われてくる。彼ら/彼女らは、地面の起伏、排水溝やパイプやバンクなどの物体の表面や素材を正確にスキャニングしながら、都市を巧みに再編集、再加工していると言うのだ。

スケートボーディングの多彩な技術や動き、ボードと地面が共振することによって伝わってくる感触、摩擦音や滑走音、怪我の痛みなどを精緻に考察することによって、これまで「見る─見られる」「読む」「歩く」など、いささか単純化された行為に還元されていた都市の経験の記述に深みをもたらしている。本書は、建築のカルチュラル・スタディーズとも言えようが、工学畑出身のボーデンの強みのひとつは、従来のカルチュラル・スタディーズにしばしば欠けていた、モノへの深い洞察力にあろう。なぜ、その事物の形態がスケートボーダーに転用を促したのか、それがいかなる「資材性(潜在的有用性)」を備えていたのかを、道具や建造環境の具体的な特徴に即しながら分析することによって、身体が受け取る物理的な空間からの被規定性を精確に把握している。このことは、2章「装置」でスケートボードの、4章「建造された空間」でスケートパークの発達の歴史にそれぞれ一章分を割いていることからも頷けるだろう。しばしば、社会学では、空間決定論を批判するあまり、物理的な空間の拘束力を軽視するきらいがあるがゆえに、社会学系のフィールドワークに携わる者は、ボーデンの姿勢から学ぶべき点が多いはずだ。

ボーデンは、スケートボーディングによる空間の生産を身体中心的なものとみなす見方を回避する(ライプニッツによる時空の関係説や、差異を生産するリズムの源泉としての身体の重要性を踏まえたうえでのことだが)。その代わりに提出するのが、身体、ボードという装置、地形の空間を超えて弁証法的に生産される「超─建築空間」(337頁)という概念である。身体─ボード─地形の動的な交差によって生じる「超─建築空間」は、それぞれの境界線を溶解し、再編成する。「超─建築空間」という「生きられる概念(コンセプト)」(268頁)の提示によって、さらにボーデンは、スケートボーディングをめぐる現象学的関心を、資本の介入、取締りの強化、都市の再開発などの広範な経済的、物質的、イデオロギー的条件と連関させて捉えることを狙っている。

ただし、ルフェーヴルに依拠しながら、資本主義の量的尺度からの解放や抑圧的な空間編制に対する「抵抗」を強調すること、あるいは単に都市・建築の事後的な「使用」の多様性を指摘することに、もはや新鮮味はないだろう。むしろ、本書のボーデンによるルフェーヴル解釈で評価すべきは、第一に「表象の空間」(本書の訳語では、「表現の空間」)という生きられる経験の内実を身体、写真、思考、活動のハイブリッドとして詳察した点、第二に、これまであまり言及されてこなかったルフェーヴルの晩年の著作である『リズム分析の諸要素──リズム認識序説 Éléments de rythmanalyse: Introduction à la connaissance des rythmes』(1992)を現代の都市論およびサブカルチャー論に開いた点、第三に、明示されてはいないものの、ルフェーヴルの空間論とジークムント・フロイト、ジャック・ラカンをはじめとする精神分析との接合の可能性をにおわせている点にあろう。

第一の点に関して、ボーデンは、サブカルチャーの駆動装置として欠かせない写真(雑誌メディア)の受容を単にメディア内の「読み」に閉じられたものとしては扱わない。写真は、スケートボーディングの動きのなかで再生され、そこに自己が投射されると同時にそれを見ている他者へと投射し返されることで「生きられる画像」になると言う(161頁)。このような身体的実践を介してのサブカルチャー構成員間の雑誌メディアの伝播を一例として、身体─メディア─空間の重層性を論述する手つきは巧みである。

第二の点に関して、ボーデンは、「慣習的な時間の使用法からはずれた空間で、ある時間的リズムを別のものへと変えている」(255頁)スケートボーディングは、「街の規則正しい周期的リズム」(307頁)を浮かび上がらせると同時に、それらを変調させると説明する。ルフェーヴル─ボーデンによる都市のリズム分析を拡張するならば、郊外から都心へと移動するスケートボーディング文化の「シーン」や、スケートボーダーが抱く意識や感情の起伏自体が、都市開発のリズム、メディア環境およびコミュニケーション様式の変化(速度)などと呼応したものとして捉え返していくことができるかもしれない。

第三の点に関して、ボーデンは、「表象の空間」の考察を通して、スケートボーディングの動きのなかで主体の無意識の投射、鏡像の空間的認知、他者の欲望との出会いがなされることを繰り返し指摘している。ラカンの名を持ち出しはしないが、ここにはルフェーヴルが言う「表象の空間」とラカンが言う「他者の語らい」および「他者の欲望」の場である無意識との接点を見出すことができるだろう。ラカンが主体の内部/外部の差異を認めなかったように、ボーデンは「超─建築空間」という概念を、身体=主体=内部/都市空間=客体=外部という境界を解体するための弁証法として導入し、都市経験における無意識の発動源を身体もしくは物理的空間の一方に帰着させる二分法を乗り越えようとしたと考えることができるのではないだろうか。

惜しまれるのは、なぜスケートボーダーがストリートで怪我や衝突を繰り返しながらも都市を徘徊し、不合理で狂気じみた行動に駆られつづけるのかという自らの問いに説得力のある答えが用意されていないことだ。しかし、ルフェーヴル─ボーデンの線にラカンを接ぎ木すること、いわばルフェーヴルが言う「空間的実践」「空間の表象」「表象の空間」の三元性を都市空間の精神分析へと開くこと(図式的な読みになってしまうが、たとえば「空間的実践」と「表象の空間」の関係性に、ラカンの「現実界」の概念を対応させること)によって、スケートボーダーが抱える不安や分裂という受動的側面にもとづく「空間の生産」の批判的契機を析出できるのではないだろうか。それは、他者性や暴力性を孕んだ都市空間の社会的存在を明るみにすることにもつながるだろう。



南後由和 Yoshikazu Nango
1979年生。社会学、都市・建築論。東京大学大学院学際情報学府博士課程在籍、日本学術振興会特別研究員。アンリ・ルフェーヴルやシチュアシオニストの都市論を学びつつ、都市・建築をめぐる有名性/匿名性の研究に従事。
共著=『都市空間の地理学』(加藤政洋+大城直樹、ミネルヴァ書房、2006)、『路上のエスノグラフィ——ちんどん屋からグラフィティまで』(吉見俊哉+北田暁大編、せりか書房、2007)、『M×M 2007——建築家が語る「都市への処方」』(槙文彦、前田建設工業、2007)など。論文=「丹下健三の建築と有名性——1950─60年代の専門誌・一般紙誌の分析を通して」「コンスタントのニューバビロン×建築界(1)」など。


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