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セルジュ・ルクレール『精神分析すること──無意識の秩序と文字の実践についての試論』(向井雅明訳、誠信書房、2006)|柵瀬宏平 2006年11月20日

精神分析という領野において、われわれは「理論」と「実践」とのかかわりをどのように考えるべきだろうか。ジャック・ラカンが指摘するように、フロイトによって創設された精神分析の理論が、数式化=形式化を志向する近代的なエピステーメに立脚するものであるとするならば(「科学と真理」[『エクリ』所収])、いかにしてそれを個々の臨床体験における分析の実践──それぞれの分析主体に特有な欲望と関わることによって還元不能な単独性を模索しようとする分析の実践──と接合することができるのだろうか。こうして精神分析家は「秩序」と「特異性」という一見相反するような二重の要請に直面することになる。

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セルジュ・ルクレール
『精神分析すること──
無意識の秩序と文字の実践
についての試論』

本書『精神分析すること』において、セルジュ・ルクレールが第一に取り上げたのは、このパラドクサルな要請に関わる不可避の問いであり、彼はそれを次のように定式化している。「いかにして精神分析理論を、理論の構成そのものによって理論の適用の基本的な可能性を消し去ることのないものとして考えることができるであろうか」(20頁)。本書は、「文字」lettreという概念を導入することで、無意識の論理を解明し、「精神分析すること」とは何かを浮き彫りにすることを試みるのである。

セルジュ・ルクレール(1924-94)は一貫してラカンの忠実な弟子であり続けた精神分析家であり、1966年に出版された本書は、ラカン派の古典として高く評価されてきた。とはいえ、本書を一読してまず驚かされるのは、ラカンの著作において重要な位置を占めるターミノロジー、例えば「シニフィアン」や「大他者」、「想像界」「象徴界」「現実界」という3つのレジスターのような概念装置がほとんど使用されていないということである。そして、これらにかわって、本書で中心的に論じられるのが、「文字」である。極めて明晰に書かれたルクレールの著作が読者――とりわけラカンの著作に馴染みのある読者――を当惑させることがあるとすれば、そのとまどいはおそらくこの概念に由来するものだろう。       

このことを明らかにするために、ラカンによる「文字」をめぐる議論の変遷について簡単にたどり直してみる必要がある。「文字=手紙」については、『エクリ』に収録された重要論文である「『盗まれた手紙』についてのセミネール」や「無意識における文字の審級」においてラカン自身によって論じられている。しかし、それがラカン理論の中心的な概念として独自の展開を遂げるのは、デリダによる批判を経た1970年代初頭、とりわけ、「リチュラテール」Lituraterreというテクスト(Autres écrits所収)が執筆された1971年以降であった。1968年に出版された本書が用いる「文字」が、後期ラカンのそれと一致しないのは当然のことであるが、そればかりでなく、ルクレールによる「文字」概念は、それを「言説のマテリアルな支え」として考察されたシニフィアンとする『エクリ』の議論とも符合するとは言い難いのである。

それでは、ルクレールが用いる「文字」とは彼による独創の産物であろうか。本書において、彼は次のように述べている。「われわれは文字を、身体から抽象された徴の物質性として定義した。「抽象」とは通常の意味と、同時に身体的表面から分離する操作として理解されねばならない。それは身体を、痕跡が徴として身体から抽象される前に、そしてそれゆえ基本的な物質性において自分自身に同一、もしくはほとんど同一に反復しうる本質的な性質を備える前に、痕跡が記入される最初の本として扱うことである」(116頁)。ここにおいて注目すべきは、「文字」が「徴」traitとして把握されているという事態である。このような記述が依拠しているのは、ラカンが1961年から62年にかけて行なったセミネール第9巻『同一化』である。このセミネールにおいて、ラカンはエクリチュールの生成について言及したが、その際、「文字」の問題を「一なる徴」trait unaireと結びつけた。ラカンによれば、「一なる徴」とは「消去され、抑圧され、あるいは棄却されたものの、なんらかの残滓」であるが、このような議論は、「文字の線traitは、『起源的に』享楽を固定し消去する棒線として描かれるのだ」(71頁)とするルクレールの見解と軌を一にするものである。したがって、本書において展開される「文字」をめぐる考察は、「無からの創造」creatio ex nihiloではなく、ラカンのセミネールの正確な理解に裏打ちされたものなのである。

しかしこのことは、本書をラカンの教説に還元することを意味しない。ルクレールの創意は、「徴」を「性感的差異」la différence érogèneないし「快感の隔差」l'écart du plaisirの身体への記入として捉え返すことで、「文字」をセクシャリティの問題系へと接合してみせたことにある。本書第4章「文字の身体、または対象と文字との絡み合い」において、彼は、「差異の印としての文字は一貫した性感的身体を構成するという限りで、このように考えられた文字の扱いは、たしかに快感の経済へのもっとも直截な導入口である」(90─91頁)と述べている。ルクレールによれば、「身体」とは「文字としての諸特徴の総体」であるが、彼はそれを「性感帯の集合として捉えられた身体」として位置づけるのである(82頁)。このような論点は、身体への「徴」の記入の特異性を記述することで、個々の性感性が確立するプロセスを明らかにするとともに、セクシャリティが「器官的秩序」によってあらかじめ決定されたものではなく、「文字」の書き込みとその解読が孕む偶然性へと開かれたものであることを示唆している。「性感帯的身体」を「器官的秩序の転覆」を行なうものとして考察するルクレールの所説は、精神分析理論の再検討を通じて、性的身体の形成という問題に取り組もうとするクィア理論、例えばジュディス・バトラーの著作を読解するための手がかりともなりうるのである。

セルジュ・ルクレールはラカンの「忠実」な弟子であった。しかし「忠実」であることとは、師の教説を鵜呑みにし、その複雑なターミノロジーに拘泥することを意味しない。ルクレールはラカンの議論を自家薬籠中のものとしたうえで、そこから「精神分析すること」が孕む可能性を押し拡げた。本書の白眉ともいえる第5章「一角獣の夢」の分析は、「意味を持たず、無意識をその特異性において構成する」結び目としての「文字的母胎」(110頁)から、いかにして多様な意味が生まれ出るのかということを明らかにし、主体と対象、そして文字が織り成す複雑な関係性を具体的な形で提示している。『精神分析すること』が単なるラカン派の入門書ではなく、第一級の精神分析の研究書であるとすれば、それはまさにこのような仕方で「精神分析すること」の可能性そのものを押し拡げたという意味においてなのである。

最後に邦訳書について付言するならば、向井雅明氏による翻訳は、正確であるばかりでなく、精神分析の著作にとって極めて重要なものである単語の多義性を、損なうことなく日本語に移しかえている。とはいえ、訳者自身が指摘するように、本書において理論の要となる部分、とりわけ第6章の翻訳はいささか晦渋であり、論旨をより明瞭に理解するためにはフランス語原文を参照する必要があるだろう。訳者あとがきでは、ルクレールが展開する、文字、対象、主体の関わりをめぐる議論を、ラカンの言う「支配者のディスクール」(セミネール第17巻『精神分析の裏面』所収)と結びつけて考察することの可能性が指摘されており、本書をラカン理論のコンテクストで読み直すうえで示唆的であると言えよう。


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