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カール・レーヴィット『世界と世界史』(柴田治三郎訳、岩波書店、2006)|森田團 2006年12月04日

本書(初版1959)は、訳者である柴田治三郎──レーヴィットに全幅の信頼を寄せられ、数多くのレーヴィットの著書を翻訳した独文学者──によって編まれており、表題となっている講演「世界と世界史」のほか、ヘルムート・プレスナーの記念論文集に寄稿された論文「人間の本性と実存」が収められている。とりわけ前者は、現行のドイツ語版『レーヴィット著作集』には収録されておらず、現在おそらく日本語においてのみ読みうるテクストである。

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カール・レーヴィット
『世界と世界史』

「世界と世界史」は、戦後のレーヴィット哲学を知るうえでも貴重なテクストとなっている。というのも、そこでレーヴィットは、自らの主著のひとつ『世界史と救済の出来事』(1953)──初版は英語で書かれた『歴史における意味』(1949)──において展開された歴史哲学批判を簡潔に再説したうえで、〈世界〉を全体として問うというギリシア哲学における根本的な問いへの回帰という自らの立場をはっきりと表明しているからである。

レーヴィットの歴史哲学批判は、近代の歴史哲学がユダヤ・キリスト教的な世界観──とりわけ終末論的世界観──を〈世俗化〉したものであるというテーゼを出発点にしている(『近代の正統性』においてブルーメンベルクが、〈世俗化〉というカテゴリーの用法に関して、レーヴィットを批判したことはよく知られていよう)。レーヴィットによれば、近代の歴史哲学は〈創造神〉によって造られた〈世界〉の行程を〈人間〉から出発して問う。したがって、そこにはギリシア哲学のように〈神〉が内在している〈世界〉を全体として問う可能性が、その前提からして締め出されているのだ。彼が批判するのは、ヴィーコ、ヘーゲル、ディルタイを経てハイデガーに到る近代の歴史哲学が、〈世界〉──そのギリシア的表現によれば〈コスモス〉──を不当にも〈世界史〉へと狭めていることである。

哲学にもう一度原初の問いを取り戻そうという試みの背景には、レーヴィットが身をもって体験した20世紀初頭における歴史哲学と政治との結託が招いた惨劇についての反省がある。日本での亡命生活において触れた東洋の自然観の影響も忘れてはならない。しかし、彼は単純にギリシア回帰を目指しているわけではない。「自然的コスモスは古代的でも近代的でもなく、ギリシア的でもキリスト教的でもなく、東洋的でも西洋的でもなく、資本主義的でも共産主義的でもない」(138頁)。哲学の対象として回復されるべき〈世界〉は、古代ギリシアの哲学者が問うたような〈コスモス〉、すなわち秩序づけられ、すべてと調和しながら、自らに安らう世界ではもはやないし、東洋的世界でもない。それは「われわれには何の関係もなさそうな世界」(140頁)である。では、それはどのような〈世界〉なのだろうか。

「世界と世界史」の末尾でレーヴィットは、ハーマン・メルヴィルを引用しながら、「われわれには何の関係もなさそうな世界」が「沈黙」に沈む世界であることを指摘している。黙した世界は、神々しく輝くギリシア的自然とは著しい対照をなすだけでなく、人間に対して徹底的に外面的な世界であろう。皮肉なことに、このような世界の観念は、グノーシス思想に見出されるような世界の考え方に近づく。ハンス・ヨナスによれば、グノーシス主義者たちは、ギリシア的なコスモス概念を、その意味を転倒させることで受容し、この概念を貶めようとした。彼らにとって、人間と世界との紐帯は分断されており、世界は徹底的に人間に対立するものであったからである。グノーシスにおいて〈コスモス〉は、いわば人間とは無縁の世界となるのだ。

このような世界は、実は歴史哲学において見出される世界でもある。オード・マルクヴァルトは、ヤーコプ・タウベスが、近代の歴史哲学が終末論の世俗化であるというレーヴィットと同じ前提から出発しながら、対照的な立場をとっていることを指摘している。レーヴィットとは異なり、タウベスは歴史哲学における終末論の世俗化を積極的に評価する。彼にとって歴史哲学は、人間の住む世界を偽りの世界として認識させる手段だったのである。偽りの世界とは、グノーシス的な表現を用いて言えば〈異郷〉としての世界を意味するだろう。ここでタウベスは、終末論的な相における歴史と時間の経験、つまり「終わりの時 Endzeit」の経験──終末を目前にした猶予の時間の経験であり、かつ期限を切られた時間の経験──において、レーヴィットと同じような世界を見出しているように思える。少なくとも、「終わりの時」における世界が、〈世界史〉の過程において経験されるような世界ではないことはたしかである。だがタウベスは、歴史哲学にグノーシスの遺産をはっきり見取っていたものの、「終わりの時」において〈世界〉や〈自然〉がどうなっているのかについて具体的に語ることがない。

レーヴィットが回復しようとした〈世界〉は、本人が望んだように歴史哲学から決別することによってではなく、タウベスの終末論理解、歴史哲学理解を媒介にして問われてこそ、改めて意義をもつように思われる。「終わりの時」における世界ないし自然への問いは、われわれの世界への問いとなりつつあるからだ。たしかに、両者が辿りついた地点から始めることは極めて困難な試みとなろう。だが、この地点から哲学史をもう一度振り返ることはできる。たとえば、ベンヤミンの〈自然〉と〈歴史〉についての考察は、このような観点から読まれることによって、新たな可能性を孕んだものとして現われてくるに違いない。


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