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この後ろ姿を忘れない──『父親たちの星条旗』(監督=クリント・イーストウッド、2006)|石谷治寛 2007年01月09日

クリント・イーストウッドの『父親たちの星条旗』は「尻」についての映画である。これは奇を衒って言っているわけではない。太平洋戦争の最中、6人のアメリカ兵が硫黄島の擂鉢山に星条旗を掲げる写真が新聞の一面を飾った。映画の冒頭で、ひとりの「母親」が、配達された新聞を手にとるなり、この写真のなかに息子の姿を認め、「オムツをあてた尻は、見分けられるわ」と主張する。ジョン・フォードの映画を思わせるこの簡潔な場面が感動的なのは、「星条旗を掲げた英雄とは誰か」という問いが登場人物のあいだに深い亀裂を生む、その後の宿命がここにはっきりと予感されているからである。

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『父親たちの星条旗』

『父親たちの星条旗』の物語の出発点は、国のために戦った英雄を讃えることでも、国債集めのプロパガンダを告発することでもなければ、戦争の残虐さを見せつけることでもなく、第二次世界大戦においてアメリカの「勝利」を決定づけた写真のイメージを読み替えることにある。このイメージは、「青い空/海にきらめく抽象的な星々」についての集団的記憶と、「親しいものだけが見分けることのできる具体的な尻」についての個人的記憶とが鬩ぎあう場となっている。映画において若い兵士たちには、幼さの残る顔だけでなく、尻、背中、後頭部が強調されており、これらの身体部位がどのように画面に収められているかを注視せねばなるまい。

例えば、6人のうち生き残った3人の兵士が内地での凱旋パレードのためスタジアムで星条旗掲揚の場面を再現するシーンでは、観客の歓声に応えて肩を抱き合って並んでいる彼らを、映画のカメラは背後から捉える。そして、夜空に轟く花火の炸裂音を聞いたとき、そのうちの衛生兵は硫黄島での激戦へとフラッシュバックに襲われ、顔を背けるようにして画面のこちら側へと振り返る。重要なのは、映画の多くのシーンで、背後から兵士たちの肩や後頭部が、彼らの面前で煌めく花火や、写真のフラッシュ、銃器の閃光や爆発とともに収められる場面が繰り返されることである。それによって、星条旗の図柄に連想される二重のイメージ、すなわち内地での軍楽やマスゲームといった光溢れるスペクタクルの下で展開される現在と、太平洋を進む軍艦の隊列や空を駆けめぐる航空機の群れ、宙を飛び交う規則的な銃音や閃光の記憶とが、兵士たちの身体を通して強制的に媒介されることになる。

実際、戦場では味方の顔も敵の顔も確認する余裕はなく、彼らが仲間を見失わないためには、より前方の背中や尻を追い続けるしかないだろう。戦場の再現シーンの多くで、地面に置かれたカメラは仰角の構図で兵士たちの腰まわりを捉えている。だからといって、これが軍隊特有のホモソーシャルな男同士の絆に染まったノスタルジーとして描かれているわけでもない(写真に写っている兵士のうち2名が味方の銃弾によって命を落としているのは痛切である)。かつてイーストウッドは、グレナダ侵攻を扱った『ハートブレイク・リッジ』(1986)で、若い兵士たちの訓練を指導する軍曹を演じ、マリオ・ヴァン・ピープルズ(!)扮する黒人兵との師弟愛を描いたが、この映画でより重点が置かれていたのは、退役後の人生に備えて女性誌を熟読するこの老軍曹と、彼の戦地での任務の不安に耐えきれず離婚した前妻との、時を経たのちの和解にあった。これにも明らかなように、彼の戦争映画の独自性は、「男らしさ」から遠く離れ女性の存在感がきわだたされる点にある。そしてこの「鬼軍曹」は、ヒスパニック系の貧しい部下の家庭に訪れる場面で赤子を抱いてしまうのだから、奇妙にもイーストウッドは母性的にみえる。『父親たちの星条旗』においては、銃を担い大地に旗を起立させることによって英雄とされたはずの3人の男たちには、逞しさや自尊心より、むしろ不能が強調されている。慟哭して涙を流す姿が忘れがたいピマ族の海兵隊員(ネイティヴ・アメリカンの抵抗闘争に加わらず白人に味方した部族の出身であることを自嘲的に語っていた)にとって、戦いから逃れて英雄に祭り上げられている自らの孤立感を贖うことができるのは、ここにいることができない仲間の「母親」たちを気遣うことによってしかない。

背中や後頭部が、遺体の記憶と切り離しがたいことも指摘しておかなければならない。映画のなかで中心的な役割を演じている衛生兵は、「死体の髪を刈っている」とからかわれながらも、仲間の散髪を行なっていた(理髪師の姿は、第二次世界大戦時の記憶を扱った2つのドキュメンタリー、ランズマンの『ショアー』やクレイフィとシヴァンの『ルート181』を思い起させる。いずれにおいても理髪師は死者の存在を雄弁に証言する形象であった)。また、戦場において負傷者を手当てして安全な浜辺へと収容することは衛生兵の任務であるが、彼はうつぶせに並べられた無数の身体に波が打ち寄せる光景もたびたび目撃することになる。

映画は、晩年の衛生兵が息子の傍らで息を引き取る場面で締め括られている。彼は、死ぬまで戦地の経験を息子に語ることはなかったのだが、生涯忘れられない戦友の姿として一時の休息(その後36日間戦闘は続いた)に海辺を戯れた経験を振り返る。映像化できない美しい独白で終わるのではなく、最後に再現シーンが挿入されるのは、やや冗長にも思われる。だがこの場面で、兵士たちは軍服を脱いで裸になり、真っ白の下着に包まれた尻を露わにする。そして衛生兵もまたその輪のなかへと駆け込むと、画面は俯瞰ショットへと切り替わる。そのことによって、このラスト・シークエンスは彼の主観ではなく、誰のものでもない非人称的なものになっている。この青い青い海に白波のきらめく場面が、漠然とした平和のイメージになっていないのは、幼年期に戻ったような多数の尻の生き生きとした現前が見守られているからである。それゆえに、この場面の眼差しには、男たちの思い出だけでなく、遠くから思いを寄せ続けていた「母親たちの」夢想もそっと忍び込んでいるように感じられてならない。


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