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禍々しいメディア──『バベル』(監督=アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、2006)|柳澤田実 2007年06月05日

前作の『21グラム』(2004)では、移植された心臓が媒介となって、全く見ず知らずの男女が出会う物語が描かれていた。今回はライフルである。この1丁の銃を介して、モロッコ、メキシコ、日本という3つの離れた場所に生きる人々が繋がってゆく。『バベル』というタイトルは、言うまでもなく旧約聖書『創世記』第11章の「バベルの塔」を想起させるが、そもそもこの作品の主題自体が、『創世記』第3章から第11章までに展開する人類の堕落、分裂、放浪の物語を前提にしているようにも見える。

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『バベル』
引用出典=http://babel.gyao.jp/

アダムとエヴァは一見些細に見えるある約束(善悪の知識の木から食べてはならない)を破ることによって楽園を追われた(第3章)。楽園を失って初めて2人は交わり、2人の男子をなす(第4章)。兄はカイン、弟はアベルと名づけられ、カインは土を耕す者、アベルは羊を飼う者となった。前者は農耕、後者は牧畜を代表しているとも解釈される。ここで重要なのは、土を耕す者となったカインが、おそらくは農耕に従事するための道具を獲得したと予想される点である。この農耕のための道具は同時に、アベル殺害のための凶器になった。この興味深い解釈を提示したのは、動物行動学者のコンラート・ローレンツである★1。ローレンツによれば、この道具と暴力の同時的発生は、ペキン原人の居住跡によって実証されるそうだ。実のところ聖書には、カインが嫉妬によって弟アベルを殺した際に、何を用いたのかについては明記されてはいないのだが、それでも中世以来、多くの画家たちもまたローレンツと同様の解釈をし、カインの凶器を、農耕用の鍬や鋤のように描いてきた。初めて道具を手にした人間による兄弟殺し。このテーマは、映画史上、すでにスタンリー・キューブリックによってこれ以上ない表現を与えられているが(『2001年宇宙の旅』)、私たちは同様の問題を再び、しかし、より同時代的な状況認識に基づき『バベル』のうちに見出すことになる。

モロッコの山岳地帯で、1丁のライフルが羊飼いの家族にもたらされる。羊を襲うジャッカルを撃退するためにと、父親の友人がゆずったものだ。家の幼い兄弟たちはこぞってライフルの腕を競う。弟のほうが腕の良いことに腹を立てた責任感の強い兄は、苛立ち、この銃は3キロ先も撃てないポンコツだと不平を述べる。それがきっかけとなって、兄と弟は、競って遠隔の標的を狙い撃ちし始める。そこに偶然ツーリストバスが通りかかり、腕の立つ弟はバスに弾を撃ち込むことに成功してしまう。弾は、静寂のうちに、乗客のアメリカ人夫婦の妻の肩を貫通した。この夫婦は、3人目の子供の死によって壊れかけたパートナーシップを修復するための旅路にあった。打ち解けるタイミングを失い、よそよそしくバスの座席に並んでいた2人は、一瞬のうちに事件に巻き込まれ、この夫婦の惨事は全世界に放映される国家レヴェルの大惨事になってゆく。こうした出来事の規模の拡大は、当初、銃撃がイスラム原理主義のテロリストによるものだと誤解されたことによる。この誤解が、事態をさらに難しくする。同行していたほかのツーリストたちは、自らの身を案じて夫婦を見捨てて逃げようとし、また国家間の話し合いの難航によって救助自体も遅延する。

羊飼いが手にしたライフルは、元を辿れば、狩猟を趣味とするある中年の日本人男性が、旅行先のモロッコのガイドにプレゼントしたものであった。この日本人男性の状況もまた幸福からは程遠い。妻に自殺され、聾唖者の一人娘は思春期のただなかにあり、彼に心を許さない。聾唖の少女は、『バベル』から直接想定される、言葉によるコミュニケーション不全の極めてわかりやすい象徴である。男性と少女が暮らす高層マンションもまた、バベルの塔を暗示するようだ。少女は、自らが幾度も直面する伝達不可能性に対する欲求不満を、性的衝動として解消することを望み、その願望をグロテスクなまでに表出してゆく。

方や、アメリカ人夫婦の2人の子供は、メキシコにいた。彼等はサンディエゴでメキシコ人の乳母と留守番をしていた。しかし、両親の帰国が延びたため、預かり手のいない2人を、乳母が、仕方なく自分の息子の結婚式にまで連れてきたのだ。乳母は、雇い主の危急の事態とはいえ、息子の結婚式への出席を諦めることができなかった。ところが、この些細な無理が、大きな悲劇を生む。夜になって子供たちを連れて、再びサンディエゴに戻る途中、彼らは、国境境の検問に会う。車を運転していた甥の失言が、不法入国者としての疑いを警官に引き起こし、彼らは、パトカーで追跡される羽目に陥る。焦った甥は、子供たちと乳母を砂漠の中に残し、逃走し、取り残された彼らは、翌日の炎天下のなか、命の危険に曝されることになる。

砂塵だらけの山岳を、警察による追求を恐れ、逃げてゆくモロッコの羊飼いの親子。メキシコとアメリカの国境を、おろおろと彷徨う乳母と子供たち。彼らは、バベルから全地へと散らされた人類を思わせる。弱く、圧倒的に無力な彼らは、一見富裕層、あるいはグローバリゼーションの犠牲者にように見えなくもない。そもそも狩猟を趣味とする裕福な日本人が、ライフルを持ち込まなければ、貧しい少年たちも加害者にならずに済んだのではないか。乳母もまた、遠方に旅行する雇用者の無理を、一方的に押しつけられなければ、このような事態を引き起こすことはなかったのではないか。しかし、弱者である彼らもまた、無辜ではない。このあたりの描写において、イリャリトゥはけっして単純な図式に陥らないように慎重である。「悪いことをしていないのに、どうして隠れるの? 本当は悪い人なの?」と尋ねる子供に、「私は悪い人間ではない。愚かだっただけ」と答えた乳母は、結婚式で昔の恋人と恋を再燃させたため帰宅の時間を遅らせ、さらには、泥酔した甥に運転させるという判断ミスを犯した。モロッコの兄弟たちもまた、下らない互いへの嫉妬心やプライドのために、衝動的に撃ってはならないものを狙撃してしまったのだった。

愚かさもまた、ある程度を越えた時に、悪へと転じる。確かに、「悪」という表現は強すぎるかもしれない。だが、明らかに、些細な無理や誤魔化しは、ある程度を越えると暴力となり、具体的な加害へと現実化してしまう。イリャリトゥは、ある一定量の負荷(量)が具体的な悪(質)へと転化してゆく事の次第を丁寧に描き出している。

物語のなかで一貫して問われている言葉および道具一般は、この作品の全体を構成してもいる。モロッコ、メキシコ(アメリカ)、日本という3つの遠隔地を結ぶのは、ライフル/サイトシーング/マスメディアである。その全てが、今日の人々を媒介するメディアおよびメディア的体制であり、また、個々に暴力性を持つのは言うまでもないだろう。この映画の結末は、どの登場人物にとってもけっして最悪のものではない。そこには抱擁がある。しかし、そのどれもがカタルシスになりえないのは、この作品が提示した、世界を構成するメディアの禍々しさが一切解毒されていないからだろう。アメリカ人の夫は、救助のためにようやく到着したヘリコプターに乗り込むに際して、負傷した妻と彼にずっとつきそって通訳をしたモロッコ人のガイドに何枚もの紙幣を手渡そうとする。ヘリコプターが轟音を立てるなかで、ガイドは、この紙幣という禍々しいメディアの授受をジェスチャーで断る。夫は困惑しつつ、「Thank you」とつぶやきながらヘリコプターに搭乗した。冗長な抱擁のロングショットではなく、わずか1分程度のこの短いシークエンスこそが、大切な何かが伝達可能性に託された情景として鮮明に記憶に残っている。

★1──コンラート・ローレンツ『攻撃』(日高敏隆+久保和彦訳、みすず書房、1985)328─329頁。



柳澤田実 Tami Yanagisawa
1973年生。東京大学総合文化研究科博士課程修了。現在、南山大学人文学部専任講師。哲学、キリスト教思想専攻。宗教的経験や美的体験など、従来人間の「精神活動」として捉えられてきた事柄を、行為と環境との相関関係において捉えなおすための方法論を探求している。『SITE ZERO/ZERO SITE』No.1「特集=病の思想/思想の病」では特集企画を務めた。


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