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失われた作品を求めて──サラ・ウォーターズ『夜愁』上・下(中村有希訳、創元推理文庫、2007)|石橋正孝 2007年07月03日

周知の通り、チャールズ・ディケンズの小説において、運命の悪戯で生き別れになった登場人物たちはしばしば偶然の計らいで再び三度めぐり会う。ディケンズの描くすべての人物にそのかけがえのない独自性として分け与えられている愛すべき奇癖の数々を何度でも見出したいと願うわれわれ読者を喜ばせるこの偶然は、物語を強力に展開させる重要な役割を担っている。それに対して、ヴィクトリア朝社会の裏面に取材した幾つかの小説★1で、ディケンズとその年下の盟友にしてライヴァルでもあったウィルキー・コリンズを共に自家薬籠中のものとして大向こうを唸らせてきたサラ・ウォーターズの最新作『夜愁』は、時代を第二次世界大戦とその直後に移しただけではなく、ディケンズ的な「偶然」の鮮やかな逆用が注目される作品である。偶然によって織り合わされた登場人物の運命の絵模様がここでは最初から「結果」として示されており、過去への段階的な遡行以外に物語の展開がありえない仕掛けになっているのである。

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サラ・ウォーターズ『夜愁』

というのも、『夜愁』における「偶然」は、けっして登場人物相互を出会わせることがないのだ。登場人物Aは、自分のかつての恋人Bに救われた過去を同僚Cが持っていることを知らず、CはCで密かに望んでいたBとの再会を運よく果たすものの、そのBとAの間の経緯など知る由もなく、さらにはCの弟がゆえあってBの下宿先を毎週訪れていようとは、AもCも夢にも思わないし、BにしたところでCの弟は見ず知らずの若者でしかない。Bが救ったCをAが同僚に持つという偶然とBの下宿先がCの弟の訪問先だったという偶然が重なって、Aを失った痛手から立ち直れずにいるBがAといわば背中合わせになっているのに互いに気づかずにいるという構図が成立する。いいかえれば、われわれ読者のみがそれを知っていながら、登場人物に知らせたいという欲望を覚えないのであり、そのことが登場人物全員の間の埋めようのない距離を際立たせる。

いや、むしろ知らせるほうが残酷なので、彼らがそれを知ることがないように望んでいるといったほうがよいだろう。今後CがBと親しくなることで、結果的にBがAと再会したとしても、この2人の間に可能性はないという事実を改めてBが突きつけられるばかりなのだ。しかし、仮にBと親しくなったとして、そのことをCがAに告げる可能性はほとんどないことを、そして、そのことに安堵することを、われわれは物語の過程で学ぶ。先に指摘した2つの偶然には十分すぎるほどの肉付けが施されているということであって、CがBと再会したがる理由も、Cの弟がBの下宿先を訪れる理由も、BがAを失う過程と同じくらい濃密に描かれていて、単なる道具立てに終わっていない。かくして最終的にわれわれが学ばせられることになるのは、「失う」とは本当にはどういうことなのか、ということなのである。

AはBを捨てて選んだDを失おうとしている。このAにとってもCを介したBとの再会の可能性がひたすら残酷でしかないのは、Dを失った事実そのものをまさにBが体現しているからだ。人は他者との関係性においてしか存在しない以上、AはDとの出会いで別の存在になってしまうことでBから失われたのであり、その変化のさらなる進展のゆえに今度はDから捨てられようとしている。BがAを失う過程は決定的で、取り返しがつかず、AがDを失うのはその駄目押しにすぎないといえる。Bもまた、Aを失うことでその人格の一部が死んでしまい、別の存在になってしまっているからであって、そもそも小説は「現在」におけるその姿を示すことから始まっていたのである。

AとBが背中合わせにいながら2人ともそのことを知らずにいるという、偶然の符合による距離が最初に提示していたのは、BがAを失ったという結果だった。次いで、時間を遡り、AがBから失われていく過程、Aが別の存在に不可逆的に変化してしまう過程――失うことの取り返しのつかなさ――が入念に語られる時、失われたもののかけがえのなさが事後的に迫ってくる。あたかも徹底的に失いつくすことなくしてかけがえのなさに到達することはできないかのように、小説は時間を遡行しつつ進行するのだ。この小説における「過去」を構成する一瞬一瞬はすべてあらかじめ失われたものとして、事後的に見出されたものとして現われるかけがえのなさなのであって、Bが失ったAのかけがえのなさ――BとAの最初の出会い――こそその極みであるのはいうまでもなく、それが示される結末に全篇は向かうことになるだろう。

すべてのかけがえのない瞬間のなかでもとりわけ幸福な瞬間は、そのそれぞれが「まるで小説のようだ」という呟きをわれわれに思わず漏らさせ、その自家撞着にかすかな戸惑いを覚えさせる――そうした一瞬が小説の読書体験の最も甘美な瞬間のひとつであるのは、それが作品への愛の矛盾と通じているからではないか。すでに述べたように、ここにあるのは「失う」ことを認識するという知的操作であり、そのための人工的な(現実にはありえない)状況設定を偶然が成立させるという実験性は、「実験小説論」のゾラ以上に、『可哀想なミス・フィンチ』に代表される後期コリンズの「問題小説」からウォーターズが継承すると同時に、状況設定が生み出す結果に対する興味に代えて、最初から結果を示すことで人工性を払拭したものといえる。結末で明らかになるAのかけがえのなさは、この操作の結果として紛れもなく知的に獲得されるものでありながら、しかし、それは同時に失われたものとして逆説的に獲得されるのである。作品への愛もまた、常に同じ逆説を抱えている。作品は書物という物として確かに実在しているのに、読んでいる間しか存在しない。ある作品に対する愛は、それを何度も何度も読み返さずにはいられなくなるという徹底した無償性としてしか経験されない。

おそらく、作品を読むことも、そして書くことも、この残酷な無償性に耐えることのなかにしか存在しない。この時、A(ヘレン)、B(ケイ)、C(ヴィヴ)、D(ジュリア)のいずれも女性であることが決定的に重要となる。子供を生み出すことがないという意味で無償の同性愛でなければ、あのかけがえのなさを、作品への愛をあれほどの強度でわれわれが体験することはなかっただろう。ここで自ずと想起されるのは、ハンガリーのノーベル賞作家イムレ・ケルテースの『生まれない子供のためのカディッシュ』を論じるクロード・ムシャールの言葉である★2。アウシュヴィッツを生き延びた話者が子供を欲しがる妻に突きつけた「否」の一語をめぐる語りの蛇行が構成するこの作品において、子供に「生まれないこと」=「時間性からの解放」を贈与することによる作品生成の実践を通じて、現実における親子関係の拒否が作品を書く行為の本質的な一部を成していたのである。




★1──『半身』(中村有希訳、創元推理文庫、2003)、『茨の城』上・下(中村有希訳、創元推理文庫、2004)。ほかに邦訳のない第一作(Tipping the velvet, Riverhead Books, 1998)がある。
★2──Claude Mouchard, Qui si je criais...? Œuvres-témoignages dans les tourmentes du XXe siècle, Paris, Laurence Teper, 2007. 500ページを超えるというその物理的分量以上に読み応えのあるこの論集については、稿を改めて紹介する機会を持ちたい。



石橋正孝 Masataka Ishibashi
1974年生。ジュール・ヴェルヌ研究。東京大学大学院総合文化研究科博士過程単位取得退学、パリ第8大学博士課程修了。ジュール・ヴェルヌとその編集者エッツェルの共同作業とそれを支える編集メカニズムに関する博士論文で2007年4月にパリ第8大学で博士号を取得。引き続き、ヴェルヌ研究に従事するとともに、大西巨人を中心とする現代日本文学も論考の対象としている。
共著=『Jules Verne : les machines et la science』。論文=「ウィルキー・コリンズから大西巨人へ」など。


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