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軍事的領域の自律性、純粋戦争の現在|ポール・ヴィリリオ『民衆防衛とエコロジー戦争』、『パニック都市』|平田周 2007年10月22日

ポール・ヴィリリオは都市計画家、軍事史家、メディア論者といった肩書きを持っているが、その肩書きは同時に彼の取り扱う主題である空間、戦争、技術という主題をも指し示している。つねに同時代的な状況と併走しながらヴィリリオの一連のテクストが描いてきた思考の軌跡は、アクチュアルな地図をかたちづくっている。そうした地図を織り上げる2つのヴィリリオの重要なテクスト、『民衆的防衛とエコロジー闘争』(1978)(河村一郎+澤里岳史訳、月曜社、2007)(以下DL)と『パニック都市』(2004)(竹内孝宏訳、平凡社、2007)(以下VP)とが、今年相次いで翻訳・紹介された。前者は初期ヴィリリオの戦争についての言説の要約であると同時に到達点であり、後者は齢75になっても執筆活動に衰えを見せないヴィリリオの手による9.11以後の都市論である。ここでは、この2冊を貫くキーワード「純粋戦争」を取り上げることで、およそ四半世紀を隔ててヴィリリオの思想が描く軌道を概観していくことにしたい。以下に見るように、ヴィリリオがDLで概念化を試みた「純粋戦争」は、VPにおいても(ヴィリリオ自身がその語を用いているわけではないとしても)暗示的なかたちでつねに顔を覗かせているのである。

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上:ポール・ヴィリリオ
『民衆防衛とエコロジー戦争』
下:同『パニック都市』

純粋戦争とは何か? DL前半の論考「純粋戦争」における概念規定によれば、それは「戦争機械」である。「機械」とはすなわち、他の社会的有用性やシステムに還元されることのできない自律性を持った対象として、ドゥルーズやガタリが、あるいはシモンドンが規定したような意味において。ただし、ヴィリリオの戦争機械は、ドゥルーズやガタリにおける戦争機械とは異なり、革命的なものへ向かう力線を引くことはない。その違いはとりわけ、1980年代のほとんど同時期に出版されたヴィリリオとドゥルーズそれぞれの映画を主題とした著作を比較すれば明瞭である。ドゥルーズが『シネマ』(I, 1983、II, 1985)において、映画という新たな芸術の様態に(美学的)革命と呼びうるものを見出していく一方で、ヴィリリオが『戦争と映画』(1984)において分析の対象とするのは、戦場を支配する兵站術にイメージが付け加わること、言い換えれば、戦争機械に非生物であるカメラという視覚機械が接合する様態なのである。そのような意味においてヴィリリオの戦争機械は、良かれ悪しかれより純粋である。ヴィリリオの純粋戦争はまた、DLで再三言及されるクラウゼヴィッツの「絶対的戦争」概念とも類比的である。クラウゼヴィッツは絶対的戦争を、社会的状況や政治的目的によって規定される「現実的戦争」とは異なる戦争それ自体の内部法則から取り出すことができる純粋な傾向性と規定していた。絶対的戦争と純粋戦争はともに、他の社会的行為とは独立した戦争の、あるいは軍事独自の領域を指し示しているのである。とはいえ、最終的には純粋戦争の概念規定は絶対的戦争と性質を分かつ。なぜならば、純粋戦争は以上の概念規定に付け加えて、戦争の指揮可能性をある環境の内に築き上げることによって、自然環境に人工的な環境を設置し、以前には戦争に関与しなかった住民を社会的防衛のために動員することをも意味しているからである。戦争の指揮可能性が人工的な「囲い」を被支配者たちの環境に設置することは、古代の城砦都市に始まりナチスが連合軍の上陸を拒むためにヨーロッパ沿岸に打ちたてた「ヨーロッパの壁」に至る歴史に普く見られることだ、とヴィリリオは述べる。そして、そのような「囲い」の中で支配する「軍隊を動かす技術」、すなわち「兵站術」が目指す戦略とは、「安全をもたらす恐れのうちで、敵によって喚起される恐怖よりも恐るべき恐怖のうちで総体を動員すること」(p.73)であると言うのである。安全への欲求は、現実的な恐怖以上に作られた恐怖によって作り出される。それ故、「軍事的正義」とは、「恐怖の管理」なのである。

かくしてヴィリリオの「純粋戦争」概念は、もはや平和状態や戦争状態を意味しない。なぜならば、純粋戦争は、「日常生活の諸々の挙措のなかへの軍事的なものの浸透」を、言い換えれば、大衆の恐怖を管理することを意味し、その戦争における「軍事的な審級」は、対外的であるのと同じ程度に、あるいはそれ以上に内に向かうからである。実際、ヴィリリオによれば、1831年のクラウゼヴィッツの死から2度の総力戦を経て、核による「相互確証破壊システム」とその兵站術的な展開(「恐怖の均衡」)へと最終的に至る戦争の歴史とは、戦争の指揮可能性が環境全体に広がり、地球規模の恐怖の管理が始まったことを告げるものにほかならない。そして、戦争の指揮可能性の広がりは、その担い手である国家以外のアクター、言い換えれば民衆の武装防衛の権利を消滅させていく運動とパラレルである。したがってDLのもうひとつの論考「革命的抵抗」では、軍事的安全保障が民衆防衛に代わって台頭し始める1970年代の情勢が問題となる。

以上に見たDLでの戦争についての言説はVPにおいても踏まえられている。もちろん、ヴィリリオの先行する著作群のうちで、VPが目配せするのはこの著作に限られるわけではない。副題に付された「よそはここで始まる」というフレーズは、ヴィリリオが都市と視聴覚メディアとの関係について論じた『危機的空間』(1984)冒頭の章「過剰露出都市」に確認できるし、速度をキーワードとしながら情報化社会とそれを支える視聴覚技術について考察してきた一連のヴィリリオのテクストが、VPの至るところで彷彿とさせられる。ヴィリリオは速度の現実的な効果を「時間圧縮」と呼んでいる。すなわち、速度が空間を縮減し、「ここ」と「よそ」という異質な空間を共存ないし混合させることである。それゆえ、テレビやインターネットなどの通信メディアの伝達速度は、ここがよそで始まり、その逆によそがここで始まるという「パラドクサルな論理」を持っていると、ヴィリリオは主張する。そして、ヴィリリオによれば、瞬時に無媒介に遍在することを可能にする極限的な速度は、逆説的に動かないこと、「不動性」によって定義することができる。そうした「走行圏」と呼ばれる速度が貫く圏域においては、事物よりも映像が、現前より遠隔現前が、空間より時間が優位に立つ。したがって、VPにおいて暗に考察されている純粋戦争は、その地球規模の囲いを視聴覚メディアのコミュニケーションによって築き上げるのである。

VPの表題が示すパニックは、このような囲いの中で存在する。その囲いは、視聴覚メディアのコミュニケーションが繰り返し反復する「匿名的テロリズム」によって引き起こされた惨劇の映像によって構築されているのである。そのような囲いの中に現われるのが、「強迫観念」という不安障害を持った意識に支配された「大衆の感情の同期化」であり、そうした感情から閉域化(FORCLUSION)と疎外化(EXCLUSION)、そして「包囲性神経症」が生じる。その具体事例としてヴィリリオが考察するのは、セキュリティの欠如を理由に監視カメラとガードマンによって自らを囲い込むゲイテッド・コミュニティ(閉じた都市)やアメリカの「劇場軍国主義」(エマニュエル・トッド)である。そして、その考察の結論としてヴィリリオは、「ヒステリー的グローバリゼーション」を前に、逆説的にも都市は内向していき、アメリカの軍事作戦は「パニックを払いのけるという口実のもとにパニックを増殖させる」(p.102)、と言うのだ。

以上のVPでの分析は、規模とループの速度が異なるとはいえ、DLにおける分析にすでに予告されていたとも言える。すなわち、そこでヴィリリオは、土地を収奪された被占領民であるパレスチナ人の「民衆的攻撃」、もはや防衛すべき環境を持たないパレスチナ人が航空機をハイジャックし、メディアという領土を占領することについて分析を加えているのだ。そうした民衆的攻撃が選択の余地のなかったものだと認めながらも、ヴィリリオの批判は残酷である。すなわち、メディアの占領の果てに政治的な交渉権を獲得することができると彼らが考えていることは誤りであり、むしろ予期しなかった形で世界規模の社会的防衛を要求する安全保障ドクトリンを強化するだけである、と言うのである。ヴィリリオの主張では、そのような体制においては政治的な交渉相手は認められず、ただ「全方位的な予防システム」と大衆の恐怖の管理が存在するだけである。それゆえ、78年の著作から2004年の著作を展望すると、囲いと恐怖の管理がより速度を増しながらグローバル化した結果、すでに70年代にあった徴候が、ゲイテッド・コミュニティや演劇的軍国主義といった形で顕在化したと言うことができるのだ。

このようなヴィリリオの分析はわれわれにどのようなパースペクティヴを与えてくれるのだろうか? 恐怖の管理の貫徹か、それとも権力によっても制御されない純然たるカオスか。あるいはそのどちらでもなく、純粋戦争に抗して、われわれは真に何を守るべきか、あるいは新たな価値創造について語り、実践することができるのだろうか。おそらく問題は、政治に場を取り戻すこと、あるいはその場を創造することにかかっている。グローバル化とその脱局所化の運動に抗って、もう一度局所化が考えられなければならないのだ(とはいえ、もちろんそこで目指されるべきものは閉じた都市ではない)。というのも、ヴィリリオがVPで言うように、脱局所化が常態であるグローバリゼーションにおいて局所化こそが外部にあり、そして、今だかつて場を持たない政治など存在しなかったからである。もしそのような外部としての局所的な場を政治に取り戻すことができなければ、視聴覚メディアという閉域に限定された民主主義(「リアルタイムの専制」)が不安に苛まれながら、純粋戦争を自ら望み続けるだけであろう。なぜならば、恐怖の管理とは裏返して言えば、安全性の操作・管理なのであり、いくら安全を「消費」しようが、そのような民主主義において恐怖や不安が本当の意味で除去されることはないからである。ヴィリリオのパースペクティヴが明らかにしているのは、防衛のための消費として安全が究極の商品となったこと、そして、冷戦以後、不要になったはずの軍が治安維持のための安全保障の必要性を唱えることによって自らの存在理由を示すようになったこと、この両者が重なり合うということである★1。それゆえ、このような環境において、ヴィリリオが用いる意味での戦争機械は解体されることなく、依然として世界をうろついているのだ。戦争の哲学が描き出すこのような地図に、政治哲学が応えなければならない課題は多い。





★1──70年代から始まるラテン・アメリカ諸国の軍事独裁から民主化への移行において、国内の治安維持に自らの存在理由を見出す軍の傾向はすでに見られる。この問題については、例えばアルフレッド・C・ステパン『ポスト権威主義』(堀坂浩太郎訳、同文館、1993)が詳しい。ヴィリリオ自身が当時のラテン・アメリカの情勢に触れているものとしては、『ネガティブ・ホライズン』(1984、邦訳=丸岡高広訳、産業図書、2003)の第5部の2つの章を参照。


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