SITE ZERO Review | サイトゼロ レヴュー

立木康介『精神分析と現実界――フロイト/ラカンの根本問題』(人文書院、2007)|柵瀬宏平 2007年10月29日

1950年代、ジャック・ラカンは、構造主義言語学、とりわけシニフィアンの概念を援用することによって、フロイト読解に画期的な革新をもたらした。その際、彼によって強調されたのは、想像界に対する象徴界の優位であった★1。ところで、50年代から60年代の変わり目にかけてラカンの思索に大きな転機がおとずれる。シニフィアンの網目の残滓としての「もの」(das Ding)に焦点を当てたラカンは★2、象徴界の領野に「同化されえぬもの」として現実界を「不可能なもの」として再定義し★3、この概念を自らの議論の中核に据えたのである。

deguy

立木康介『精神分析と現実界』

『精神分析と現実界』は、60年代のラカンの論考を出発点として、精神分析における根本概念としての現実界の意義を明らかにするものである。とはいえ、このことは、本書が単なるラカン解説書であることを意味しない。というのも、現実界の概念を練り上げるために、ラカンは他の思想家たちの思索を参照したからであり、著者はこの道程を自らたどり直すことによって、精神分析という言説の可能性を逆照射することを企図するからである。

例えば、本書第五章「夢と覚醒のあいだ」において、著者は『精神分析の四基本概念』の中で「現実界との出会い(損ない)」として導入されたアリストテレスの「テュケー」(偶運)をめぐる議論を、「非決定の因果関係」(138頁)として捉え返している。このようなアリストテレス読解は、第9章「質料と偶然」においてさらなる展開を見せる。『自然学』の「四原因」論における質料因の特異性を分析することによって、著者は目的性に抵抗する質料性を、必然を偶然のなかへと転覆するような出会いの契機として位置づけるのである。

以上のようにして素描された偶然性をめぐる議論は、精神分析における「非決定の要素」(118頁)としての欲動という問題へとわれわれを導くことになる。実際、1905年の『性理論のための三篇』以降フロイトによって体系的に論じられることになった欲動は、ラカンが現実界を概念化するための重要な基盤であった。とはいえ、フロイトの欲動とラカンの現実界との間に単線的な系譜関係を設定することはできない。両者の間には、複雑な議論の交錯が存在するからである。このことを明らかにするために、著者は第5章と第6章において、フロイトの欲動論を本格的に検討している。紙幅の都合上、ここでは性欲動と身体とのかかわりを論じた第5章「精神分析的身体論の基礎」について見てみよう。

著者がまず取り上げるのは「精神、身体、および言語を頂点とする三角形」(155頁)の関係性である。フロイトの見解にしたがえば、精神分析において言語は精神に無媒介的に働きかけるものである。精神は言語と同じ構造を持つのである。それでは、言語=精神と身体はいかなる可能性をもつのであろうか。一方において、身体は言語によって構造化されるという側面を持つ。このことを示すのは、ヒステリー症状における身体である。ヒステリー患者の身体症状は、言語的な論理によって規定されているのだ。しかし、これがすべてではない。というのも、身体の内部を流れる欲動エネルギーそのものは、こうした構造化の残余として、言語的な身体の外部にとどまり続けるからである。欲動が精神的なものの領域へと入ってくるのは、もっぱらその代理を通じてのみである。身体的なものとしての欲動と精神は「表象の代理」を介して、いわば偶然的な仕方で出会うことになるのである。

さて、このようにして精神に乗り入れた欲動は、身体の性愛化を引き起こす。欲動は生理的な身体をセクシャルな身体へと作り変えていくのである。著者は、欲動によって性愛化された身体を精神分析家のクリストフ・ドゥルージュにならって、「エロース的身体」と呼ぶが、そこで問題となるのは、エロース的身体がひとつの統一体を構成するかという問いである。これについて考えるために本書が依拠するのは、性欲動はすべて部分欲動であるというフロイトのテーゼである。フロイトによれば、部分欲動としての性欲動は、身体をばらばらに性愛化していくのだ。さらに著者は、レオ・ベルサーニとラカンの議論を参照することで、性器欲動による部分欲動の統合というヴィジョンを明確に否定する。そして、そのことから「欲動がひとつの全体へと統合されない以上、身体(エロース的身体)もまたひとつの全体を構成しはしない」(187頁)という命題を導き出すのである。

ところでエロース的身体の統一という問題に対する解としては、この命題の他に、もうひとつの選択肢が存在している。すでに見たように、性器欲動は諸部分対象の集合を構成するどころか、部分対象に単に付け加わるものにすぎない。そう認識したうえで、それでもなお、「全体」を代表する欲動として性器欲動を特権化するとすれば、そこにおいて現われるのは、「全体が部分に付け加わる、すなわち、全体が諸々の部分と同じ水準に、それらの部分の傍らに、位置づけられる」(188頁)というパラドキシカルな論理である。著者は、この異様な論理を傍証するものとして、ドゥルーズとガタリによって提出された「器官なき身体」とラカンの「鏡像段階論」理論を引き合いに出すことで、ドゥルーズ=ガタリとラカンの思索を架橋する可能性を暗示するのである。

72年から73年にかけて行なわれたセミネール『アンコール』において、ラカンは現実界を偶然的な出会いが生起する場として位置づけた★4。『精神分析と現実界』は、現実界という概念に刻み込まれたラカンと他の思想家たちとの出会いの痕跡を浮き彫りにすることで、この概念がはらむ重層的な意義を明らかにした。そればかりではない。第5章の議論からも読み取れるように、本書は精神分析と他の言説、たとえば哲学的思考やセクシャリティ論との新たな出会いの可能性をも示唆しているのである。とすれば、われわれに残された課題とは、本書によって提示された強靭な思索をきっかけとして、精神分析的な思考を「決定論の彼岸」(101頁)において、ラディカルな「出会いの唯物論」(262頁)へ向けて解放することなのではないだろうか。




★1──Jacques Lacan, Le Séminaire Livre II (1954-1955), Le moi dans la théorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse, Paris, Seuil, 1978.(邦訳=『フロイト理論と精神分析技法における自我』上・下、小出浩之+鈴木国文+小川豊昭+南淳三訳、岩波書店、1998)。
★2──Jacques Lacan, Le Séminaire Livre VII (1959-1960), L'éthique de la psychanalyse, Paris, Seuil, 1986.(邦訳=『精神分析の倫理』上・下、小出浩之+鈴木国文+保科正章+菅原誠一訳、岩波書店、2002)。
★3──Jacques Lacan, Le Séminaire Livre XI (1964), Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, Paris, Seuil, 1973.(邦訳=『精神分析の四基本概念』、小出浩之+新宮一成+鈴木国文+小川豊昭訳、岩波書店、2000)。
★4──Jacques Lacan, Le Séminaire Livre XX (1972-1973), Encore, Paris, Seuil, 1975.


ページの先頭へ