自由なものが最終的に腕力に負けるのを見るのは悲しい。2006年のワールドカップでアルゼンチンはドイツに敗れ、あまつさえ数日前にはポルトガルまでドイツに屈してしまった。フィジカルの強さに頼らず、他者に巧みに選択可能性=スペースを与えることよって展開する自由度の高いサッカーに、筆者は希望を感じる。あえて乱暴に言わせていただくならば、この希望を語るための概念がディスポジションである。
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ディスポジション概念図 |
以上のようなヴィジョンをもって、自身が尊敬する同世代の理論家/実践家に研究会への参加を依頼し、本書が生み出された。権力論の論客としても著名な萱野稔人さん、生態心理学に基づき人々の生活を捉えるための哲学を展開している染谷昌義さん、デザイン・エンジニアの本間淳さん、17─18世紀の西洋思想に基づき人間形象の変遷について探求している大橋完太郎さん、制作行為としての建築を幅広く研究している東辻賢治郎さん、思考の方法としての音・映像の布置について研究し、批評および制作活動もしている平倉圭さん、近代日本の建築・都市について歴史的研究を行なっている天内大樹さん、そして編著者の柳澤の計8名のテキストが本書を構成している。留学や就職など参加メンバーの身上の変化により、最終的な原稿が揃うまでにはずいぶんと時間が掛かってしまったが、編者としては、その間に、この概念を導き手にすることの意義について思考が深まった。詳細はぜひとも本書の序論をご覧いただきたいのだが、20世紀の哲学においてはもっぱら分析哲学の専売特許であるこのディスポジションという概念の系譜は、古代ギリシアのアリストテレスにまで遡る。それ以来(いやおそらくはそれ以前も)、一貫してこの概念は人々の日常的な言語用法のなかに生き続けてきた。この概念が人々の思考の背後に退いたのは、事物の配置が人間の意識や主観に回収されてしまった近代以降のことである。力関係や価値もまた、事物の配置によって生み出されるものではなく、主観的な構成物になってしまったのだった。こうした思想史の経緯を知り、今改めてディスポジションを掲げることは、近代的な合理主義や主観性、あるいはそこから由来した値相対主義に抵抗することであるという確信を得た。世界の実在性を認め、その複雑性に粘り強く対峙し、そこに潜在する可能性(ディスポジション)を発掘することは、古びているわりにはちっとも解決されていない近代の超克という課題に対して、新たな展望を拓くのではないか。
本書は、ディスポジションという概念を導き手とする探求のはじまりである。先に「粘り強く」と言ったが、実際この探求はこれからも継続されなければ意味がないし、編著者としては、願わくは多くの方々にこの方策を共有していただきたいと願っている。ディスポジションを探求することとは、現状に配置を見出して、ただそれを追認することではない。膠着した現状の配置を知ることは、それを再配置することによって潜在する力を発現させるための条件となる。ディスポジション的探求は、現実に潜在する可能性の発見と採掘にこそ、人間の創造性があることを信じる。暴力的なエゴイズムを容認させる「天才」ではなく、周囲の潜勢力を活かす「達者さ」「発明の才」を信じる態度と言ってもよいだろう。本書が、より「よく生きる」ために世界を再配置したいと願う人々にとって、何らかのヒントになればこんなに喜ばしいことはない。6月21日に開催された刊行イヴェントでは、本書の探求に対して、岡崎乾二郎氏、小林康夫氏、藤村龍至氏が素晴らしいプレゼンテーションによって応答してくださった(ちなみに「発明の才」については非常に多くのことを岡崎氏に教示していただいた)。モダニストからの揺さぶりは覚悟のうえで、ディスポジションによる探求はすでに再出発している。
>>ディスポジション | 配置としての世界 特設サイト
| 柳澤田実 Tami Yanagisawa 1973年生。東京大学総合文化研究科博士課程修了。現在、南山大学人文学部専任講師。哲学、キリスト教思想専攻。宗教的経験や美的体験など、従来人間の「精神活動」として捉えられてきた事柄を、行為と環境との相関関係において捉えなおすための方法論を探求している。『SITE ZERO/ZERO SITE』No.1「特集=病の思想/思想の病」では特集企画を務めた。 |