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『ヴァルター・ベンヤミン/亡命の住所録 1933─1940』(クリスティーネ・フィッシャー=デフォワ編・註釈、2006[未訳])|竹峰義和 2007年03月05日

1933年3月中旬にナチス政権下のベルリンを離れてパリに赴いたヴァルター・ベンヤミンは、1940年6月初旬まで、この「19世紀の首都」を本拠地として亡命生活を送る。およそ7年間に及んだベンヤミンのパリ亡命期は、「フランツ・カフカ」(1934)や「複製技術時代の芸術作品」(1935─39)のみならず、未完に終わったライフ・ワーク『パサージュ論』にまつわる労作――「パリ――19世紀の首都」(1935)、「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(1937─38)、「ボードレールのいくつかのモティーフについて」(1939)、「歴史の概念について」(1940)――が次々と著されたという意味において、きわめて多産な時代であったといえよう。だが、その一方で、この間にベンヤミンが置かれていた生活状況は、きわめて過酷なものだった★1。定まった身分や住居はおろか、充分な生活費すらもない外国人のフリーライターとして、やむなく引き受けた注文仕事にたびたび煩わされながら、安宿から安宿へ、知人宅から知人宅へと転居を繰り返しつつ、『パサージュ論』のための引用の収集とメモ書きの執筆にひたすら献身する日々。さらに、1939年9月にドイツとフランスとのあいだで戦争の火蓋が切って落とされると、いまや〈敵性外国人〉となった彼は、2度にわたる強制収容所暮らしをも強いられる。そして、最終的にベンヤミンが、1940年9月26日夜、アメリカへの再亡命の道半ばにして、スペイン国境の田舎町でモルヒネ自殺を遂げたことは、不遇でありつづけた天才批評家の生涯を締めくくる哀しい結末として、夙によく知られていることだろう。

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Walter Benjamin.
Das Adressbuch des Exils 1933-1940
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このように、経済的理由から幾度となく転居を重ねた亡命時代のベンヤミンであったが、猛烈な勢いで迫り来るナチス・ドイツ軍を前に、取るものも取らずパリを離れる直前まで、彼の手元につねにありつづけたのが、一冊の小さな住所録であった。7×4.4cmというポケット・サイズの、濃緑色の皮表紙で包まれたこの手帳は、ベンヤミンの最後の住居に残されたあとも、歴史の荒波に流されるようにして、さらに数奇な遍歴を辿ることとなるのだが★2、ともあれ、2006年に出版された『ヴァルター・ベンヤミン/亡命の住所録 1933─1940』(Walter Benjamin. Das Adressbuch des Exils 1933-1940, herausgegeben und kommentiert von Christine Fischer-Defoy, Leipzig: Koehler & Amelang, 2006.)において、そこに記載された事項のすべてが、ほぼ完璧なかたちで甦ることとなった。そこではまず、手帳のなかで書き込みのある全25ページと、住所録の補足として使われていた計12枚の葉書が、原寸大のカラー写真ともに復元されている。エルンスト・ブロッホ、ブレヒト、アルフレート・コーン、グレーテル・カルプルス、クラカウアー、ヴェルナー・クラフト、ホルクハイマー、エルンスト・シェーン、ショーレム、ヴィーゼングルント・アドルノといった――ほとんど全員が亡命中の――親しい友人や知人たちの名前と住所、電話番号が、独特の極めて小さい筆跡で、実に几帳面に綴られているさまは、「手紙の人・ベンヤミン」(アドルノ)にとって、みずからの私信を送り届ける友人とその宛先とが、いかに大きな意味をもっていたかをうかがわせる。

だが、住所録に記載された総計310個のアドレスは、書簡集などですでに馴染みのある著名人のものに限られるわけではない。『ヴァルター・ベンヤミン/亡命の住所録 1933─1940』の主要部分をなす編者解説においては、手帳と葉書に登場する名前のすべてが改めてABC順に配列され、伝記的なデータやベンヤミンとの個人的な関わり等について詳しい説明が施されている。そこには、先に言及した人々のほかにも、ベンヤミンの家族――妹のドーラ、元妻のドーラ・ゾフィー、息子のシュテファン――をはじめ、アーシャ・ラツィスを筆頭とする女友達、アドリエンヌ・モニエやジョルジュ・バタイユのようなフランスの知人たち、社会研究所のスタッフ、財政支援者、雑誌編集者、出版関係者、作家、ジャーナリスト、翻訳者、知人の秘書、学術機関、さらには、書店、写真スタジオ、歯医者、引越し業者に至るまで、実に多種多様な固有名が見受けられるのであり、それらが織り成す星座的布置(コンステラツィオーン)をつうじて、パリ亡命時代のベンヤミンの交友関係や日常生活が鮮やかに浮かび上がってくる。パリ時代のベンヤミンが物質的な窮乏に苦しめつづけられたことは確かであるにせよ、しかしながら、住所録にびっしりと書き込まれたアドレスは、彼にとって、友愛を確かめあうコミュニケーションの回路だけはなおも閉ざされてはいなかったこと、そして、そのような回路の存在こそが、孤独で困難な亡命生活を精神面から支える大きな拠所のひとつであったことを物語っている。スペイン国境で深い絶望に襲われたベンヤミンの手元に、長年にわたって辛苦を共にしたこの小さな住所録がなおも残されていたならば、もしかすると、新たな亡命地のアメリカ合衆国において、例の独特の筆跡でもって、そこに新たなアドレスが書き加えられるような日がきていたのかもしれない。

ちなみに、この住所録の編纂者であるベルリン在住の歴史家・映画作家クリスティーネ・フィッシャー=デフォワは、すでにこれまで、パウル・ヒンデミットとマレーネ・ディートリッヒの住所録を復元したものを公刊しており(Berliner ABC. Das private Adreßbuch von Paul Hindemith. 1927-1938, Berlin: Transit 1999; Marlene Dietrich Adressbuch, Berlin: Transit 2003.)、現在はハインリッヒ・マンの住所録を編集中(2007年刊行予定)、今後さらに、ハナ・アーレントとジョージ・グロスの住所録の出版を計画しているという。


★1──ベンヤミンのパリ亡命時代の詳細については、野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー、1993)を参照されたい。
★2──この住所録は、ベンヤミンのパリの住居に残されたほかの草稿群と同様に、ひとまずゲシュタポによって接収され、ベルリンに運ばれるのだが、45年のナチス・ドイツの敗北後、今度はソ連軍によって再押収され、モスクワへ移送。その後、1957年にポツダムへと引き渡されたのち、1972年に東ベルリン芸術院の所蔵となる。現在は、2004年にベルリンに設立された「ヴァルター・ベンヤミン・アルヒーフ」において、ほかのすべてのベンヤミンの遺稿資料とともに一括管理されている。



竹峰義和 Yoshikazu Takemine
1974年生。表象文化論、ドイツ思想史、映像メディア論。武蔵大学ほか非常勤講師。アドルノ、ベンヤミンを中心に、フランクフルト学派の思想におけるテクノロジー・メディアの位置づけを問い直す作業をつづけている。著書=『アドルノ、複製技術へのまなざし──〈知覚〉のアクチュアリティ』(青弓社、2007)。共著=『美のポリティクス』(御茶の水書房、2003)。論文=「『国民的精神』の招喚」など。


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