SITE ZERO Review | サイトゼロ レヴュー

重なり合う境界――アン・リー監督『色・戒 Lust, Caution』|御園生涼子 2007年12月14日

街路に突然、一本のロープが現われて通行を遮断する。初め一筋の線のように見えたそれは、警察の圧力とともに押し寄せる人の波を堰き止め、先を急ごうとするヒロインを乗せた人力車の行く手をふさぐ。何か事件があったらしい。1941年の上海では、珍しいことではない。家に早く戻らなければならないのに、と不平をもらす人びと、軽口で不満を紛らわす人びと。住民たちの日常生活の流れを暴力的に止めてしまうこの細いロープは、しかし、上海の市街地に普段から潜在している分断線を可視化したものでしかない。東洋における経済の中心地であり、いくつもの通貨、言語、人種が交じり合い、行き交う上海の交通を一瞬にして凍結する非常線は、この街の特徴とされる異種混淆性が、実際には融合によってではなく、異なる文化・制度間のエスカレートする対立関係の上に成り立っているのだということを暴露する。そしてまた、国家の暴力による介入が、街の境界を浮き立たせ、固定する力を持っているのだということも。突如として権力として顕在化したこの境界に、ヒロインは絡め取られ、身動きが取れなくなってしまう。抗日レジスタンスのスパイとして、複数の境界線を潜り抜けてきたその能力も、もはや通用しない。

lust_caution

アン・リー監督
『色・戒 Lust, Caution』

アン・リーの新作『色・戒 Lust, Caution』のクライマックスに位置するこのシーンは、この映画が断片化された植民地支配下の都市の境界と、その越境と侵犯をめぐる物語であることをはっきりと私たちに告げている。ヨーロッパの列強が割拠する「半植民地」都市・上海の政治状況は、新興の帝国勢力である日本が軍事力によって占拠したことにより、一気に複雑化する。日本政府の傀儡政権の下、テロルによる取締りが相次ぐ殺伐とした都市の断層を、密通=密告するスパイとなったヒロインは巡り歩き、結びつけることとなる。しかし、彼女の「交通」する能力――レジスタンスの敵である秘密警察の幹部を誘惑し、その情婦になることによって情報を引き出す――は、境界線で隔てられた領域間の交流を滑らかにする類のものではないだろう。むしろ、細分化された都市空間を行き来する彼女の身体は、二項対立的な図式ではとらえることのできない権力関係を媒介し、対立を加速させていく。ヒロインの武器である性的な魅力は、一方では彼女を境界線の向こう側へと運ぶパスポートとなるのだが、また一方では空間的・政治的な対立構造を男女の権力関係に翻訳することによって、その敵対関係を増幅させてもいるのだ。この映画のタイトル(張愛玲の原作小説のタイトルでもある)『色・戒 Lust, Caution』は、性的な欲望と権力による戒律を、対立すると同時に結びつき、結びつくことによって対立を激化させる2つの極として提示していると言えるだろう。この重なり合いつつも、けっして解かれることのない緊張関係を示す2つの極を媒介として、私たち観客は20世紀の東アジアをいくつにも分断していた錯綜した境界線の姿を、透かし絵のように見ることになる。

ここでもうひとつ興味深い点を挙げるとすれば、複数の国家の利害によって分裂していた日中戦争期の上海の政治状況が、メロドラマの二元的な構造にある種の変革を及ぼしているということだ。君主制にもとづいた絶対的な秩序が崩れた世界のなかで、悲劇に代わる新たな物語形式を市民社会の二元論的な倫理に求めたものがメロドラマの原型であるというピーター・ブルックスの定義を受け入れるとすれば、単一の「市民」というカテゴリーが通用しない20世紀前半の上海においては、メロドラマの法則は失調せざるをえないだろう。ここにあるのは、善悪や、ユートピアとしての農村共同体とその対立概念としての近代都市といった二元的な構造ではない。この映画が映し出す、旧ヨーロッパ租界や日本軍の占領区域によって都市空間が分断され、街路にいくつもの言語・人種が行き交う上海では、国民=民族としての境界はつねに不安にさらされている。ヒロインのモデルとなった実在の女スパイ・鄭蘋如が、日本人と中国人の混血であったことは、象徴的だと言えるだろう(小説および映画においては、上海出身の母を持つ一方、広州で育ち教育を受けたという設定に置きなおされ、中国国内の言葉の差異が幾度も言及される。この設定は、本土─香港─上海という移動のなかで孤児的な状況に置かれるヒロインのアイデンティティや[父親はイギリスに移住し、再婚している]や、民族団結を呼びかける学生演劇運動の挫折といった挿話とともに、ナショナルな共同体という神話に揺さぶりをかける。ナショナリティの分裂という主題は、アメリカに移住した台湾人としてのアン・リー自身の経歴、またこの映画の多国籍的な製作状況においても分析されるべきものだろう)。その出自においても、行動においても複数の国民=民族のあいだを行き来する国際スパイの紡ぎだすメロドラマは、多元化する20世紀以降の世界においてこの物語形式を捉えなおすための糸口を与えてくれているように思われる。善悪二元論に代わってこの映画を貫いているのは、「色 lust」と「戒 caution」という全く異なる2つの要素であり、境界線を越えようとする欲望と、それを押しとどめようとする制度とのあいだの、めまぐるしく変化する権力関係なのではないだろうか。

映画のなかで、異なる文化・制度領域のあいだの壁=「戒 caution」は、さまざまな形をとって表われる。ヒロインと、その敵であり愛人である易先生は、密会のために上海の街をあちらこちらへと移動する。その道程には軍部による関門がいくつも敷かれ、彼らは問われる度に身分証明をしなければならない。そして、これらの境界を通り抜けるのも、またその存在を際立たせるのも、「色 lust」の存在なのだ。例えば、密会の場所として指定された日本料亭に向った時、ヒロインはいくつもの襖によって仕切られた日本的空間に足を踏み入れるだろう。突然開いた襖の中から流れ出してくる日本人将校の醜態と芸者の音曲は、暴力的なものとして彼女を怯えさせる。愛人の待つ部屋にたどり着いた彼女は、ここに私を呼び出した理由がわかったわ、と言う。私はここで娼婦のように振舞えばいいのね。それに対して、彼はそうじゃない、と答える。娼婦として振舞っているのは自分のほうだ。盃で酒を飲む彼の周りには、先ほどまで酒宴が開かれていたらしく、空の箱膳がいくつも並べられている。「娼婦」という言葉によって、日本の傀儡政権下で働く自分の立場を表現する易は、政治的な権力関係と性的な権力関係が通底していることをはっきりと自覚していると言えるだろう。この場面において日本風の座敷という空間は、ヒロインと易との非対称的な関係が、さらに外側の政治的な権力関係によって覆われ、決定づけられていることを視覚的に表す舞台装置となっている。

しかし、彼らを政治的な権力空間の奥深くにまで誘い込んだ「色 lust」は、また一方で境界を越える可能性を垣間見せてもいるのではないだろうか。芸者の長唄を聴きながら、彼らは泣くように歌う、と言う易に対し、ヒロインは、私のほうがもっと上手く歌える、と言って立ち上がって歌いだすのだ。正面からフルショットでとらえられたヒロインの歌う姿は、立っている彼女と座っている易という位置関係を伴って、彼らのあいだの非対称的な関係を逆転してみせる。しかし、中国語で歌うヒロインの甘い歌声の持つ効果は、それだけには留まらない。彼女の歌は、日本的空間の内部からの抵抗の徴となって易とのあいだに連帯の絆を生み、2人を情愛によって結びつける。「色 lust」は、この時、権力関係を生み出す欲望から、非対称性を無効にする愛情へと移行していると言えるだろう。もちろん、こうした対等な愛情の可能性は、一瞬だけ浮上したのち、すぐに不安定な政治力学のなかに飲み込まれてしまう。そもそも、外的な政治的非対称性が強調されることによってはじめて、性的な権力関係が解消されるという構図は、非常にアイロニカルなものだ。しかし、ここで重要なのはむしろ、異なる民族や文化、人種などによって多元的に決定された空間が、2人の関係性に絶え間なく働きかけ、さまざまな形に変化させているという点ではないだろうか。その一方で、彼らのあいだを結びつける「色 lust」もまた、入り組んだ植民地支配下の力学を男女の関係性において変奏させながら、境界を守ろうとする「戒 caution」の存在を浮き立たせると同時に、そこにある対立関係を変化させることを迫るのである。

この映画の細分化された空間力学のなかで、唯一つ意味づけが曖昧であり、宙吊りにされた場所として登場するのが、映画館の暗闇だろう。もう少し正確に言うならば、「アメリカ映画を上映する映画館」とするべきかもしれない。学生であったヒロインでも手の届く安価な娯楽として、また政治的に抑圧された環境や、父親へのやり場のない想いを忘れさせてくれる夢の空間として、映画館の暗闇はヒロインの感情を解放するシェルターとなる。上海へと移動してからは、その暗闇はレジスタンスの同志と連絡を取り合うための隠れ蓑となってくれるだろう。そこは上海の街で唯一、易の視線が届かない場所となる。暗闇を恐れる彼は、映画館へはけっして足を踏み入れないのだ。だが、映画館の暗闇の中は必ずしも、つねに解放区であるわけではない。映画フィルムが国家プロパガンダの道具として注目を浴びるとき、映画館は領土化への欲望によって、強烈に意味づけされた空間へと変化する。占領下上海の映画館では、スクリーンに日本のニュース映像が流れ、大東亜共栄圏の宣伝文が読み上げられると、観客は一斉にブーイングを起し、次々に席を立つ。しかし、よく考えてみると、これは奇妙なことなのだが――日本の植民地的欲望をむき出しにした教化フィルムのメッセージと、アメリカ映画が描き出す夢の共同体のメッセージとは、実際のところ、どれだけの差異があるのだろうか? 一方は人種や文化の差異を梃子にした排除と包摂の論理、もう一方は催眠的な魅力によって作り出された同一化の幻想という違いはあるにせよ、そこで言われていることは、結局のところ唯一つなのではないだろうか――つまり、私たちの領土へと参入しなさい、という命令にも似た呼びかけだ。

日本語の教育、軍事的な制圧、大衆的なプロパガンダと、ヒロインの眼を通して描かれる日本政府の植民地政策は、ヨーロッパ列強が19世紀から各地で繰り広げてきた方法論を、きれいになぞるものだ。この公式的な野心が民衆の反発を呼び、抗日運動を激化させたのに対し、アメリカ映画は観客の心の襞に分け入り、その想像力に働きかける。日本の教化フィルムに嫌悪で顔をしかめるヒロインは、アメリカ映画の映し出されたスクリーンに没入して涙を流すだろう。強く人びとを把捉すると同時に、解放的なヴィジョンを与えもするこの不思議な媒体は、1940年代初期のこの段階で、すでに国境を越える影響力を各地に波及させていた。しかし、人びとの生活を根底から変化させてしまうその文化的な拡張主義が、国境やローカルな文化と摩擦を起すことによってより問題化されるのは、もう少し後になってからのことだ。アン・リーがこの映画で描き出したのは、むしろ、伝統的な帝国主義によって分断されているかに見える1941年の上海において、まったく異なる形の勢力地図が、すでに水面下で動き出していたということではないだろうか。それはまさに、スパイとしての任務を抱えたヒロインが、国境を越えるための秘密の暗闇として描かれているのである。

国境を、文化の境目を、民族の分断線を潜り抜けて結びつけるヒロインの流動性は、易先生の暗殺計画が実行に移されることによって、急速に凝固へと向うことになる。暴力によって「戒 caution」を打ち破ろうとするレジスタンスの行動は、彼女と易がその境界線上を揺れ動いていた「色 lust」と「戒 caution」の関係を固定させ、多重決定された上海の街を二項対立的な政治カテゴリーへと分割しようとする。暗殺が計画された宝石店で、ヒロインはそれまで雑踏のなかに潜んでいたレジスタンスの同志――かつての学生演劇の仲間たち――の姿を見出すだろう。街のなかに埋もれていた境界線が、はっきりとした形をとって彼女の周囲を取り囲みはじめるのだ。宝石店の奥まった部屋で、金庫の中から取り出された指輪を目にしたとき、彼女は易と自分を隔てていた境界が取り払われたことを悟るのだが、彼女自身がそのことを証明するためにできることは、易に今すぐ逃げるようにと告げること、つまり自分がスパイであることを告げることでしかない。一瞬だけ消失したかに見えた「戒 caution」は、銃撃を逃れた易が発した戒厳令によって街を分断し、ヒロインを捕捉する。街路に引かれた細いロープは、複雑に入り組んだ植民地支配下の都市の亀裂を露呈させつつ、流れ出そうとする「色 lust」を押しとどめる。

この作品を通じて加速していく「色 lust」と「戒 caution」との攻防戦は、最終的には後者による前者への刑罰という形で幕を閉じるだろう。しかし、注意しておきたいのは、この二極が必ずしも二項対立的なものでもなければ、固定されたものとして描かれているわけでもないということだ。この2つの極は、むしろ男女間の抗争という形を通して、重なり合う文化・国家・民族の境界線上の争いを媒介し、その多面性を映し出すプリズムのような役割を果たしている。20世紀前半における権力の地勢図を折りたたんだかのような上海の街で繰り広げられるメロドラマは、揺れ動き、絶え間なく変化しつづける国境横断的な権力の網を表現するための方法論として、この物語形式を再考する可能性をあざやかに浮かび上がらせている。この映画が描き出す「色 lust」と「戒 caution」のあいだの抗争は、その可変性・複数性によって、もはや二元論的な公式によっては解消しきれない葛藤・対立をいかに可視化するかという問いに対する一つの答えを与えてくれているのだ。しかし、この時スクリーンを前にした私たちに問われているのは、単に2つの極の争いをその激しさにおいて賞賛することではないだろう。むしろ私たちに求められているのは、その抗争を生み出している複数の境界線の存在を、どれだけ繊細に知覚することができるかという力そのものなのである。



御園生涼子 Ryoko Misono
1975年生。映画論。東京大学総合文化研究科博士課程を経て、日本学術振興会特別研究員。現在、1930年代松竹メロドラマ映画と近代における文化の流動性をテーマとした博士論文を執筆中。共著=『映像表現のオルタナティヴ──九六〇年代の逸脱と創造』(西嶋憲生編、森話社、2005)。論文=「望遠鏡の視野」(『ユリイカ』青土社、2002)、「サスペンスと越境」(『表象文化論研究』、2006)、「幼年期の呼び声」(『映像学』、2006)など。


ページの先頭へ