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『ブレヒトと私/会話と歌のなかのハンス・アイスラー』(BERLIN Classics, 2006)|竹峰義和 2007年01月29日

モーツァルト生誕250周年やショスタコーヴィチ生誕100周年で盛り上がりを見せた昨年のレコード業界であるが、2006年はまた、1956年に58歳の若さで急逝したベルトルト・ブレヒトの没後50年にあたっていたために、ブレヒトの作品にまつわるCDが相次いで発売された。代表的なものとしては、ドイツ・グラモフォンから9月に一挙にリリースされた旧譜(クラウス・キンスキーによる声のパフォーマンス、女優テレーゼ・ギーレによる詩の朗読、ベルリナー・アンサンブルによる『ガリレオ』、ベルリン・シャウビューネによる『母』の上演録音など)が挙げられるが、今回取り上げたいのは、『ブレヒトと私/会話と歌のなかのハンス・アイスラー(Der Brecht und Ich/Hanns Eisler in Gesprächen und Liedern)』(BERLIN Classics)と題された一枚である。このCDは、まさにその標題のとおり、ブレヒトと長年にわたってコラボレーションをおこなってきた作曲家ハンス・アイスラーにたいして★1、1958年から62年にかけておこなわれたロング・インタヴュー――後にアイスラー全集第Ⅲ/7巻『ハンス・ブンゲとの対話/ブレヒトについてもっと訊きたいことはないですか』★2として刊行――の収録テープのなかで、ブレヒトについて語られた部分を新たに編集したものに、アイスラーの作曲によるブレヒト・ソングを交互に挟んでいくというものであり、ベルリン時代(1929─33)、ヨーロッパの各地での亡命時代(1933─37)、ハリウッド亡命時代(1942─47)、東ドイツ時代(1949─56)に至るまでのブレヒトの生涯が、盟友の声と作品によって追想されていく。

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『ブレヒトと私/
会話と歌のなかのハンス・アイスラー』

アイスラーの肉声の記録としては、同じBERLIN Classicsより出された『ハンス・アイスラー・ドキュメント(Hanns Eisler Dokumente)』(1995)という4枚組のCDがすでに存在するほか、ハイナー・ゲッベルス/アンサンブル・モデルネによる音楽劇(ムジークテアター)『アイスラーマテリアル(Eislermaterial)』(ECM, 2002)のなかで、アイスラーの楽曲とともに声もまた「マテリアル」のひとつとしてもちいられていたことは記憶に新しい。やや早口で濁声の、しかしつねに温かみを湛えたその独特な声は、まるまると太った短躯、丸眼鏡に禿頭という印象的な外見と相まって、「プロレタリア音楽の闘士」・「東ドイツ国歌の作曲家」といった仰々しいイメージを払拭し、かつて1940年代に亡命生活を送った南カリフォルニアにおいて、持ち前のユーモアと巧みな話術によって、シェーンベルクやトーマス・マン、チャーリー・チャップリンの自宅で大いに座を沸かせたという在りし日の作曲家の姿を彷彿させることだろう。だが、それにもまして興味深いのが、アイスラーによって回想されるブレヒトにまつわるエピソードの数々である。彼らの初めての出逢いの模様にはじまり、詩人の仕事のスタイル、2人のコラボレーションのやり方、音楽をめぐる見解、ハリウッドでの暮らしぶりや、はたしてブレヒトはマルクス主義者であったかという問題など、計25個にのぼるトピックをめぐって、まさに「ブレヒトについてもっと訊きたいことはないですか」といわんばかりの勢いで語られていく。

しかしながら、アイスラーという名前に馴染みのないリスナーは、インタヴューの部分はひとまず飛ばして、彼の音楽にこそ真っ先に耳を傾けるべきだ。《後に生まれる者たちにI・Ⅱ》や《子供の国歌》といったブレヒト・ソングの定番はもちろん、これまでCD未収録の曲も含めたバラードや闘争歌の数々が、エルンスト・ブッシュ、ギゼラ・マイ、エッケハルト・シャル、ゾーニャ・ケーラーなど、ブレヒトおよびベルリナー・アンサンブルゆかりの東の名歌手・名優たちや、さらにはアイスラー自身(!)の声とピアノ伴奏によって歌われる。選曲といい、歌手といい、これからアイスラーを聴こうという入門者に相応しいばかりでなく、その目配せの利いた渋いチョイスは、年季の入ったアイスラー・ファンをも唸らせるに違いない。そして、何よりも特筆すべきは、デジタル・リマスタリングされた音響のクリアさである。もっとも古い録音は1932年――エルンスト・ブッシュが歌う《第三帝国への行進》――に遡るが、「歴史的録音」にありがちのノイズや歪みはほとんどなく、歴代のブレヒト・シンガーたちの鮮やかな歌声を存分に楽しむことができる。また、音質の素晴らしさは、アイスラーのインタヴューについてもまったく同様である。語り手の息遣いや聴き手の含み笑い、さらには窓の外から聞こえてくる警笛や人声がときおり混じるなかで、ブレヒトについて矢継ぎ早に語るアイスラーの明るく力強い声に耳を澄ませていると、あたかも半世紀前の東ベルリンにタイム・スリップしたかのようだ。

「そして太陽はこれまでになく美しく輝き、ドイツを遍く照らし出す」。これは、かつてアイスラーが曲をつけたドイツ民主共和国国歌《廃墟から甦り》(ヨハネス・R・ベッヒャー作詞)の最終節のリフレインの部分であるが、このインタヴューが行なわれた当時の東ドイツにおいて作曲家が置かれていた状況は、「美しく輝」いているというには程遠かったことを、ここで改めて想起する必要があるだろう。1949年に建国されたドイツ民主共和国(DDR)は、社会主義統一党(SED)による事実上の一党支配体制のもとで、批判的勢力の排除を徹底的に押し進め、その結果として、1958年頃までには党指導者ヴァルター・ウルブリヒトを頂点とする独裁体制を確立。また、文化政策においてもDDRは、ジダーノフ流の「社会主義リアリズム」を公式路線として掲げつづけた。そして、DDRの「国民的作曲家」であったアイスラーでさえも、政治的圧力や教条主義とまったく無縁でいられたわけではない。1953年に構想中のオペラ《ヨハン・ファウストゥス》のリブレットに対して激しい非難を浴びせかけられたアイスラーは、さらに、1956年から翌年に起こったいわゆる「ヤンカ・ハーリヒ事件」において、アウフバウ出版社主宰者ヴァルター・ヤンカの逮捕・投獄や、哲学者エルンスト・ブロッホの大学追放など、みずからの親しい友人たちが党政府による粛清に晒されていくさまを、なすすべもなく甘受しなくてはならなかったのである。このように、長い亡命生活ののち、みずからが故国として選択したDDRが、社会主義国家の理想を体現するどころか、スターリン主義へとますます傾斜していくなかで、晩年のアイスラーがブレヒトについて改めて証言した背景には、亡き友人について記憶していることのすべてをみずからの口によって語り直し、記録に残すことをつうじて、彼ら2人が生涯を賭して追い求めつづけたものの、DDRという国家体制下においては〈死産〉に終わってしまった、来るべき「社会主義芸術」の理念を、「後に生まれる者たちに」こそ伝えたいという強い思いがあったのではないだろうか。

★1──ハンス・アイスラー(Hanns Eisler: 1898─1962)はライプチヒ生まれ。ウィーンのアーノルト・シェーンベルクのもとで作曲を学ぶ。1925年にベルリンに移住してからは急速に左傾化。アジプロ劇団やプロレタリアート合唱団のための〈闘争歌〉を数多く作曲する。1929年からはブレヒトとのコラボレーションを開始。『処置』(1930)や『母』(1931)の音楽などを手がける。ナチス政権誕生後、ヨーロッパの各地で亡命生活を過ごしたのち、1938年にニューヨークに渡航。1942年春からは南カリフォルニアに居を移し、ブレヒトとの協働作業を再開する。さらに、このころアイスラーは、フリッツ・ラング監督の『死刑執行人もまた死す』(1943)の音楽など、数多くのハリウッド映画の作曲を行なっている。だが、1940年代後半の赤狩り旋風のなかで、ブレヒトとともに非米活動調査委員会の槍玉に挙げられたアイスラーは、48年に半強制的なかたちでアメリカを出国。その翌年、誕生したばかりのドイツ民主共和国(DDR)に移り、東ドイツ国歌《廃墟から甦り》を作曲。1962年に心筋梗塞で逝去するまで東ベルリンで暮らす。代表作としては『ドイツ交響曲』(1935─47)、『ハリウッド・ソングブック』(1942─43)など。
★2──Hanns Eisler, Gespräche mit Hans Bunge. Fragen Sie mehr über Brecht, in: Eisler, Gesammelte Werke, III/7, Leipzig: Deutscher Verlag für Musik 1975.



竹峰義和 Yoshikazu Takemine
1974年生。表象文化論、ドイツ思想史、映像メディア論。武蔵大学ほか非常勤講師。アドルノ、ベンヤミンを中心に、フランクフルト学派の思想におけるテクノロジー・メディアの位置づけを問い直す作業をつづけている。著書=『アドルノ、複製技術へのまなざし──〈知覚〉のアクチュアリティ』(青弓社、2007)。共著=『美のポリティクス』(御茶の水書房、2003)。論文=「『国民的精神』の招喚」など。


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