フロイトの患者であり「狼男」の通称で知られる人物に関しては、本人の手になるものも含めて多くの文書資料が残されている。それらのほぼ全体をひとりの患者にみたてたうえであらためて精神分析的なアプローチを試みたのが本書である。著者ニコラ・アブラハム(1919-75)とマリア・トローク(1925-98)はともにハンガリーに生まれ、20歳前後にフランスに移住し、パリ精神分析協会のもとでそれぞれ1959年、1956年に分析家となり、以降も同協会に所属しつつ活動した。本書はもう一冊の共著『表皮と核』に並ぶ彼らの主著であり、1976年の初版出版時には、特定の読者層を中心にしたものであったとはいえ並外れた成功を収めたと精神分析史家ルディネスコは伝えている。
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ニコラ・アブラハム+ |
ドイツ語で残された文書資料について、狼男の母語であるロシア語と彼が幼児期に親しんでいた英語(そしてごくわずかな箇所でフランス語)を導入してあらためて行なわれた自由連想と解釈は、分量にして本書の半分以上を占める。まさに「作業」と呼ぶにふさわしいそれは、現代のわれわれがおかれた言語的状況を考察するための道具を、そしてフロイト研究に対しては端的に活力をもたらした──得られた数々の成果を「語」「韻」「韻の翻訳」に分類し、それらの間にある規則性を明るみにだすことを通じて(第8章および末尾目録)。つまりこういうことである。明るみにだされた規則性が示す意味論的側面ゆえに、新たな概念つまり「〈自我〉の真っ只中で働く」「特殊なジャンルの〈無意識〉」としての「埋葬室(クリプト)」の発明が必要になり(邦訳159頁)、そのようにして、心的世界に住みついた外国語を話す他者という存在を思考可能にするこの道具がわれわれの前に差し出された(体内化の観点だけではこの概念はけっして発明されえなかった)。また行なわれた分類によって、フロイトが残した前意識の位置づけという問題──意識的表象に与えた概念的表現(「語表象と物表象からなる表象」)と異なる概念的表現を、「前意識的形成物」あるいは「無意識の派生物」と呼ばれるものに対して与えることによって、意識的なものと前意識的なものの差異(たとえば語られた夢と夢そのものの差異)を理論的に表現するという問題(フロイト「無意識について」)──にひとつの解決が与えられ、それと同時に、われわれが今後取り組むべきある問いが示唆された。つまり、そのように、多言語使用の能力が陥った病理的な働き方を明るみにだすことを通じて、前意識という観念が表現上の変化をともなってであるにせよ定式化されるにいたったとすれば、そもそもフロイトのいう意識、前意識、無意識の観念がすでに、複数の言語を使用しうる存在としての人間観念を前提していたのではないか、という問いである。
本書は、ジャック・デリダが付した序文「Fors」によって思想書としての性格をはじめてかいまみせる。デリダは著者2人が踏んだ手続きそのものを考慮に入れることで、彼らが提示した人間学的知見のうちに哲学的な射程を読み込む、もしくは付け加えることになった。そこでは「埋葬室(クリプト)」が、他者論、場所論、言語論において、そして(体内化の観点が喪の作業という問題系の一環をなすかぎりで)死をめぐる議論において、敷衍されるべき概念として浮かび上がる。同様に、自由連想と解釈の作業は、特有言語や固有名、署名、出来事をめぐる議論において考察されるべき問題として。つまり、2人の分析家が行なった作業は、各個人によって異なる「語」の結びつきと結びつきの強さのみに、換言すれば──換喩や隠喩、語の音韻、形態、意味上の類似、トラウマにおいて顕著であるような出来事による繋がりなどそれがいずれの形をとるかは別の問題として──「語」の間にみられるある種の心的エネルギーによる紐帯(リビドー的紐帯)のみに注意を働かせ、そのようにして、狼男のきわめて個人的ともいうべき言葉遣いを、あるいは彼の言語活動のうちの秘められた層を、発掘、発見し、他の人々と共有しうるものへ作り上げることを狙うものであった。だがデリダが「体内化」と「取り入れ」の概念対に先行するものとして「他者の他者性」を見出すとき(邦訳182、192、222頁等)、彼の議論は『言語標本』の限界をそのまま引き受けている。訳者港道隆による後記「Postscriptum」は理論的生産性という見地からその議論を肯定的に評価しているようだが、しかし2概念が関わる「他者」をそのように一様に扱う観点からは、『言語標本』脱稿と同時期のアブラハムが展開した考察、すなわち「取り入れ」の概念とともにはじめて概念的な表現を得るような他者のあり方(「幽霊(fantôme)」)をめぐる考察の可能性がみえてこない恐れがある。
邦訳書は、訳者陣が付した行き届いた解説と注釈によって原書よりもはるかに接近しやすいものになっている。また現代思想という枠組みで要求される字義性の尊重を守ったうえで、訳文、体裁の点で日本語テクストとしての読みやすさを配慮し丁寧に仕上げられている(ただし私見を述べるならば、第七章末尾では、破局なしに証人の身分の引き受けに達すること[邦訳153頁]が、第8章第3節では、tieretの語が生の状態において回帰する[しない]こと[同161頁]がそれぞれ問題なのではないだろうか。また『言語標本』の限界を論じたデリダの議論の訳の一部に単なる手違いとおぼしき箇所[同224頁]が見受けられた)。なお、原書初版に付されていたデリダの手になる作品案内のしおり(邦訳174頁にみられるとおり現在の版では言及だけが残っている)は、「記念碑」と「出来事」という2つの語を強調しながら本書を紹介するものである。関心をおもちの方は参照されたい。