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「Hans Bellmer: Anatomie du désir」展|小澤京子 2006年08月14日

わが国では球体関節人形制作の第一人者として、もはや記号的存在となっているハンス・ベルメールであるが、この展覧会は「人形愛」の人びとの期待を裏切るかのように、ドローイングや写真といった平面作品を中心に構成されている。その中で、数点の立体作品(人形、そして人形的なオブジェ)や、ベルメールのコレクションを配したアッサンブラージュ、それから彼自身も出演している映像作品2点は、とりわけ目を惹く。日本でのこぢんまりとしたベルメール展に慣れてしまった者は、厖大な展示作品数にまずは圧倒されてしまうだろう。とりわけ、エスキス段階の鉛筆素描や初期の油彩画は、少なくとも日本ではほとんど目にする機会のなかったものである。ベルメールの熱烈な愛好家を自負する者であっても、初見の作品も多いのではないだろうか。

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Hans Bellmer:
Anatomie du désir

ポンピドゥ・センターでの展示は、年代毎に区分された小展示室を順に巡るうちに、ベルメールによる創造をクロノロジカルにたどれるようになっている。同時代の他の作家たちとの比較や影響関係という視点は、少なくとも展示においてはほとんど導入されておらず、カタログ所収の論文で補われる程度である。しかしながら、ベルメールの生涯に渡る作品を専一に配置することで、彼の創作活動における変遷や深化、ないしはそこに反復的に現われる同一の細部を、一望できる展覧会となっている。

最初の小部屋には、幼い少女の肖像や、港や子供たちの遊び場を描いた素描群、それから、人形やビー玉といった玩具をモティーフとした作品が掲げられる。それらは、おそらくは画家の眼前に現在している情景の模倣というよりも、むしろ記憶のなかに固着した、いわば原光景のようなものであろう。少女たちは妙に現実味のある個性的な風貌をしており、これは彼女らが画家の観念の中の存在ではなく、モデルとして実在したことの証左だろう。しかし、画家からも観者からも視線を外して、自らの存在の内部に沈潜しているかのような少女たちの姿は、後年ベルメールが創出することとなる人形たちの自閉的な小宇宙と、どこかで相通じているように思われる。

すでに1930年代半ばのドローイングには、接合部分で分断された毀れた人形のモティーフが現われているが、それと並んで、ガラスのビー玉というモティーフも反復的に使われている。子供が手の中で玩ぶ、硬く冷たいこの小さな球体は、後にベルメールの作品に強迫的なまでに繰り返し現われる球体関節や、やはり球体へとデフォルメされた乳房や腹部、ガラス製の眼球──これは彼が装丁を手掛けたバタイユの『眼球譚』を貫くオブセッションでもあるのだが──とも共振しあっているだろう。

この展覧会のタイトルにも冠された「解剖学」の語は、おそらくは「サディズム」や「エロティシズム」とともに、ベルメール作品を語る際の鍵概念、更に言うならば紋切り型のひとつとなっている。ベルメールにおける「解剖」とは多くの場合、球体関節という仕組みが可能とした、人形身体の断片化と再統合のことである。身体の各部位に、部分としての自立性と交換可能性を見出したベルメールは、一度その全体性を破壊した後に再び断片同士を繋ぎ合せることで、もうひとつの異なる全体性を提示してみせる。これは、身体に向けられた嗜虐的な破壊衝動というよりも、むしろその組み立てへと向けられた素朴な科学的探究心によるものだろう。それは、ひとつの統一体を構成する部分どうしの潜在的な交換可能性を暴きだす、外科医的な作業である。しかし、数多くのドローイング作品を丹念に見ていくならば、ベルメールによる「解剖」は必ずしもこのようなモンタージュ作業に限られないことがわかる。

そのひとつは、身体の内奥を覗こうとする欲動である。もっとも、陶器製の人形の身体の内部にあるのは、おぞましい内臓ではなくて、あっけない空洞なのであるが(1930年代前半に描かれたドローイング作品cat.4、18では、縦に2等分された女性身体の断面図が、中空の建築物、ないし房室として描かれている)。もうひとつは、身体の外的な境界への侵犯の欲望である。それは例えば腐敗し表面に孔の穿たれたトルソーのなかに、でたらめな再接合や恣意的な緊縛によって不定形の量塊と化した身体部位のなかに、あるいはまた、輪郭線によって画定されるフォルムを失い、絵具のマティエールの中に溶解しかけているデカルコマニーの人物像のなかに、窺い知ることができる。

1930年代前半にはハイキーな色調の油彩画も描いているベルメールだが、次第に単彩・グリザイユによるドローイングやモノクロ写真へと移行していく。モノトーンの無機的な色彩世界は、素描における細い輪郭線と淡くぼかしたハッチングや、露出過多気味に撮られた写真の光の中に融解していく輪郭線と相俟って、硬質で冷たい鉱物性の感じを観る者に与える。それは彼の作る人形の、線が細くどこか存在感の希薄な、そして冷感症めいた雰囲気とも通じているだろう。

永遠の少女、物言わぬファム・オブジェを生み出したピュグマリオニスト、あるいはその身体を毀損するサディストとして、ややもすれば限定的なクリーシェのもとに消費されがちな感のあるベルメールだが、圧倒的な作品数を網羅した今回の展示からは、必ずや何らかの新たな視座を得ることができるはずである。


[会期]
パリ:Centre Pompidou(2006年3月1日─5月22日)
ミュンヘン:Staatliche Graphische Sammlung(2006年6月21日─8月20日)
ロンドン:Whitechapel Art Gallery(2006年9月18日─11月19日)



小澤京子 Kyoko Ozawa
1976年生。表象文化論、美術史・美術理論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。
主に18世紀の建築構想における「古代」の表象について研究している。歴史の「起源」としての古典古代が、美術において「復活」させられるとき、そこにどのような変形作用が働くのか、その背景にはいかなる政治的素因があったのかがテーマ。
現在ブルゴーニュ大学人文学科近現代史専攻に在籍し、フランスにおける「古代ローマ憧憬」の受容、流通過程について調査中。
論文=「不可視の過去を可視化すること──ピラネージによる古代形象の『考古学』的復元手法について」(UTCP研究論集、2007)、「『古代』が召還されるとき──明治二〇年代の日本におけるギリシア幻想」(『SITE ZERO/ZERO SITE』2006)など。


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