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リアリズムはお腹の中に──アブデラティフ・ケシシュ『クスクス粒とボラ(La Graine et le mulet)』|須藤健太郎 2008年05月15日

今年度のセザール賞の話題が、オスカーとダブル受賞したマリオン・コティヤール(『エディット・ピアフ 愛の賛歌』主演女優)に収斂してしまうとしたら、それはあまりに悲しい話だと言わなければならない。なぜなら、前作『身をかわして(L'Esquive)』(2004)に引き続き、アブデラティフ・ケシシュ監督の新作『クスクス粒とボラ(La Graine et le mulet)』が、作品賞をはじめ、監督賞、脚本賞、新人女優賞と、見事4部門での受賞を果たしたからである。クロード・ベリが製作に回り、前作に比べて大きい予算で作られた作品だとはいえ、非職業俳優を数多く起用し、上映時間も2時間を超える本作が大衆的な人気を獲得したことは驚くべきことだ。老舗の映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』『ポジティフ』両誌にロング・インタヴューが掲載され、週刊誌『レ・ザンロキュプティーブル』は、彼に責任編集を依頼し特集号をつくるなど、批評から暖かく迎えられただけでなく、観客動員数も75万人を超える勢い。ヴェネツィア映画祭での受賞に加え、ルイ・デリュック賞も獲得したケシシュの新作が、日本でもいち早く公開されることを願いたい。

La_Graine_et_le mulet

上:『クスクス粒とボラ
(La Graine et le mulet)』
(2007)
下:『ヴォルテールのせい
(La Faute à Voltaire)』
(2000)

『クスクス粒とボラ』は、アブデラティフ・ケシシュにとって、3本目の長編映画である。1960年チュニスに生まれ、6歳の折り、家族とともに南仏ニースに渡って、そこで成長した彼は、ニースの演劇学校に通った演劇畑の映画作家である。はじめは俳優として映画の世界へと参入した彼は、この作品に出演することも考えていたようだが、自身の父親をもとに造形したともいうスリマン役には、当初、自身の父親を考えていたとのこと。つねにいくつもの企画を抱えているというケシシュがこの脚本を書き上げたのは、長編デビューの『ヴォルテールのせい(La Faute à Voltaire)』(2000)より前のことだった。南仏マルセイユが舞台だったクレール・ドゥニの『ネネットとボニ』(1997)で忘れがたいアリス・ウーリに加え、ブリュノ・ロシェやサブリナ・ウアザニなど、ケシシュ映画を支えてきた俳優たちが集結した本作は、念願の企画の実現と言っても過言ではないだろう。

舞台は南仏の港町セート。長年働いた造船所を突然クビになったスリマン(ハビブ・ブファレス)は、別れた妻のもとに集まる家族からもないがしろに扱われている。何かと親身になってくれるのは、現在の愛人スアドの娘リム(ハフジア・ヘルジ)だ。スリマンは、彼女に助けられながら、古い船を買い取り、そこでクスクス・レストランを開こうとする。しかし、それにはクリアしなければならない問題が山積している。行政上、司法上、そして金銭面での困難。このレストランの企画がどれほどいいものであるか、町の人々を説得するため、彼は一夜だけの宴を開くことを思いつく。映画は、一人無口な父親スリマンを中心に、子供たち、孫たちを含めた彼らの饒舌な言葉のやりとりを映し出していく。そう、『ヴォルテールのせい』では、チュニジアからフランスに移民した青年とその友人たちの姿を、『身をかわして』では、パリ郊外に住む高校生たちを描いたケシシュが今回取り上げるのは、南仏に住むアラブ系の大家族なのである。

しかし、監督自身が示唆するように、父親スリマンを中心に集まる家族の姿がフランク・キャプラの名作『我が家の楽園』(1938)を想起させるところがあったとしても★1、キャプラの作品に見られた楽天的とも言える大らかさと比べると、『クスクス粒とボラ』の用意するラストがそれとは遠く隔たったものであることは認めなければならないだろう。前作『身をかわして』においても、いや『ヴォルテールのせい』からすでに健在だった、ケシシュの現実をどこか冷たく突き放す視線がこの作品にも貫かれているのだ。ミシェル・シオンはその著書『シラノ・コンプレックス──フランス映画における話し言葉』において、ケシシュを「運命論者」とすら呼んでいる。『身をかわして』における、マリヴォーの『愛と偶然の戯れ』を演じる高校生を指導する教師の発言に顕著なように、ケシシュの登場人物は自らが規定された社会条件から抜け出すことができない。『愛と偶然の戯れ』には、「愛」も「偶然」もない。結果として、貧しい者が貧しい者に恋をし、金持ちが金持ちに恋をする。マリヴォーがここで描いているのは、自らの身分を偽ることはできても、けっしてそこから逃れることができない過酷な現実なのだと教師は熱く語っていたのだった。

「舞台の上で、あたしは扇子ってるから(Je suis sur scène et je suis en train de m'eventailler)」。リディア(サラ・フォレスティエ)が練習中にクリモ(オスマン・エルクハラズ)に口にする台詞に見られる、「扇子(eventail)」を強引に動詞化させたこの造語からも明らかなように、この映画には言葉遊びが満ちあふれている。「この造語は気が利いている。それに、『身をかわして』は、リディアがこの言葉を意識的につくり出したように見せている。この映画が見せるのは、貴婦人のように着飾ることが嬉しくてならない彼女の姿なのである。一般的に正しいとされている『仰ぐ(s'eventer)』という動詞と比べて、『扇子ってる(je m'eventaille)』という言い方は、いくつもの単語へと愉快な連想を誘うことだろう。『けんか(bataille)』という単語だけでなく、『ちびっ子(marmaille)』や『ごろつき(canaille)』、そしてもちろんここでしばしば口にされる『クズ野郎(racaille)』や、それのヴェルラン★2である『カイユラ(caillera)』などと」★3。しかし、シオンはここでの言葉遊びが単に愉快なものであるだけではなく、それが同時にある種の社会性を帯びることを無視することができないのだ。彼らの話す言葉は、たちどころに彼らの住む社会、彼らがパリ郊外に暮らす若者たちであることを雄弁に物語ってしまうのである。既存の言語の枠を食い破るかに見える若者たちの言葉遊びも、それが特異なものであるがゆえに、彼らがある社会的な環境に条件付けられていることを一方で指し示している。だから、『ヴォルテールのせい』が、ジャレル(サミ・ブアジラ)のチュニジアへの強制送還で唐突に幕を閉じたように、『身をかわして』が用意するのもまた、何も変えることができなかったクリモの諦念を示す、もの悲しいラストだったのである。

しかし、ケシシュの映画の魅力がそういった「運命論」的な現実を示し、あわよくばそれを糾弾することにあるなどと早とちりすることは慎まなければならない。なぜなら、『身をかわして』の試みは、言語に関わるものであると同時に、演出とスタイルの探求でもあったからである。エロディ・ブシェーズやサミ・ブアジラといった名の通った俳優を起用した『ヴォルテールのせい』が、スタイルのうえでも非常にオーソドックスなつくりをしていたのと比べると、『身をかわして』に見られるスタイル面での飛躍を誰もが認めざるをえないだろう。目と口さえ映っていればOKとも見えかねない、極端な顔のクロース・アップの素早い切り返しの多用によって、物語が語られていく。それゆえ、登場人物は空間から乖離し、その空間を把握することが難しくなっている。リセ、舞台稽古の行われている広場、あるいは彼らの住むHLM(低家賃集合住宅)が近いのか、遠いのか、その位置関係は観客にまったく明らかにされないまま映画が進んでいくのである。かつて、若き日のジャック・リヴェットが断言したように、「クロース・アップは、空間の関係性を省略」してしまうのだ★4。

だから、カメラがいくら人物に寄っているからといっても、それが、いわゆるドキュメンタリー的な効果を狙わんとしたものではないことも同時に理解しなければならない。画面の連鎖を見れば明らかなように、けっしてイマジナリー・ラインを誤ることのないここでの切り返しは、これが巧妙に構築されたものであることを自ずと主張している。撮影に一夏のヴァカンスをまるまる費やし、その大半をリハーサルにあてたという『身をかわして』において、彼がこのように映画を組み立てたことを看過することはできない。彼は、ほとんど上演可能なまでに俳優たちを演出しながら、それをひと続きに収めることなく、むしろ細かく割っていく。たった2つのカメラで離れた場所からズームを使って撮影していくケシシュの手法は、カメラの軽量化に伴い、人物を追跡するようになった流行りの手法とはむしろ対極的なものなのだ。『愛と偶然の戯れ』という劇中劇を配した『身をかわして』は、こうして、暴力的な言葉の交錯と、素早い視線の交換という不可視のものを、いや、そのタイトルを借りて言えば、なかなか把捉することのできない「身をかわして」いくものを、現実の空間からは切り離された抽象的なフィクション空間の上に立ち上がらせていたのだった。

ふたたび動きを取り戻した『クスクス粒とボラ』のカメラは、それこそひとり寡黙なクリモの瞳の動きが乗り移ったかのように、きょろきょろと素早く移動することで、人々の会話を捉えていく。顔のアップばかりの印象の強かった前作と比べると、『クスクス粒とボラ』では、港町のロケーションを生かした全景ショットも見られるのだが、例えば、別れた妻の作るクスクスに家族一同が会するシーンには、前作での「実験」が十分生かされているだろう。言葉そのものをめぐるここでの会話劇が、これまた素早い切り返しとカメラワークでもって構築されている。本作では、前作での試みがさらに推し進められているのである。

一夜限りの宴、なんとか成功へと導かなければならないこの宴の最中、炊きあがったクスクス粒をトランクに詰め込んだまま、息子マジド(サミ・ジトゥーニ)が失踪してしまう。次期市長候補の妻と浮気をする彼は、こんな場所にこれ以上いられないのだ。クスクスの登場を心待ちにする招待客たちは、怒りを露わにし始める。息子を探しに、ひとり原付を乗り出すスリマン、そしてなすすべなく途方に暮れる娘たち……。このとき、突然灯りが消えたかと思うと、舞台上で、肌も露わなリムが、ミュージシャンたちの演奏に合わせ、ダンスを披露し始めるのだった。船の改装や料理の手配など、スリマンの家族が集結して開かれたこのパーティに行くのをためらう愛人スアドとリムは、遅れてやってくる。しかしその2人が、このピンチを救うべく立ち上がるのだった。リムの腹踊りが、招待客たちの一時の空腹を忘れさせる。『クスクス粒とボラ』は、原付を盗んだ少年たちを追い回し疲労のうちに消尽していくスリマンと、踊るにつれてますます生気を帯びていくリムとを平行モンタージュで捉えていく。

これを、死と生のあまりに図式的な対比と片づけるのも可能かもしれない。しかし、平行モンタージュが、異なる空間の同時性を示す格別の映画技法であったことを想起すれば、ここでケシシュが導入しようとしているのが、紋切り型の二項対立というより、空間と時間に関わっているものであることが明らかになるだろう。『身をかわして』が、マリヴォーの流麗なフランス語と郊外のスラングとが対比される一方、スタイルの探求でもあったことを思い出せば、ケシシュがあくまで映画技法に意識的なのは明瞭である。そもそも、スリマンの船内レストランが、愛人スアドの経営するカフェの向かいに開かれることに顕著なように、ここでは、前作では意識的に排除されていた空間的な相互の位置関係が、ないがしろにされてはいなかったのである。

だから、言葉にならない叫びと身体とが拮抗する、この見事なダンス・シーンが、微視的にリムの剥き出しのお腹を捉えるショットと、観客と化す人たちとのカットバックで成り立っていたことを見逃してはならない。レストランが視線の交差する文字通りの劇場空間と化しているのである。映画が空間の芸術であるか、それとも時間のそれであるかという連綿と続く議論を想起するまでもない。つまり、映画が新たに身体を獲得するために、ここでは、不可視のものに拘泥するあまり前作が失うこととなった空間と時間が取り戻されている。まるで、リムが運動と身体を備えた「女優」として生成していくのを祝福しているかのように。頬が自然に紅潮し、腹の肉が、小刻みに震えている。

「すべてが、驚異的な存在感と的確さを獲得している。しかし、何より際立っているのは、やはり、年老いた長老たるハビブ・ブファレスの気高さ(…中略…)であり、そして、この小さな爆弾たるハフジア・ヘルジの血気盛んな激しさである。彼女が現われるたびに、スクリーンに電撃が走るのである」とセルジュ・カガンスキは書いている。そう、言語を軸に、厳密な画面連鎖による知的構築物を作り上げた前作から一転、『クスクス粒とボラ』は、身体の官能性へと捧げられているのだ。ジャン・ルノワール、マルセル・パニョル、モーリス・ピアラ、ジャック・ロジエ。そもそも、名だたる「フランス映画」の巨匠を召還せずにはいられないカガンスキは、その興奮を隠すつもりなど持ち合わせていないのだろう★5。身体が、腹が、肉が、揺れている。そのことが、ひたすら感動的なのである。しかし、それにはアドリアーノ・アプラの次のような言葉を思い起こすだけで十分だ。「ロッセリーニのネオレアリスモとは何か? ロッセリーニは現実など信じていない。彼が信じるのは、現実の彼方にあるもの、例えば星々の間にあるものであり、もしくは、現実の下に隠れているもの、例えばお腹の中にあるもの、胎盤の中にあるものである」★6。今回、映画のために15キロの増量をしたハフジア・ヘルジが、あたかも妊娠しているかのように見えたとしても不思議ではない。




作品データ
『クスクス粒とボラ』La Graine et le mulet
監督:アブデラティフ・ケシシュ
製作:クロード・ベリ
撮影:ルボミール・バクチェフ
出演:ハフジア・ヘルジ、ハビブ・ブファレス、ハティカ・カラウイ、アリス・ウーリなど
2006年/151分/35ミリ/カラー
公式サイト:http://www.lagraineetlemulet-lefilm.com/




★1──「このお伽噺はキャプラを思わせます。例えば『一日だけの淑女』ですが、何か影響はありますか?」という質問に対して彼は、次のように答えている。「ええ。キャプラの映画には、幸福な思い出がいくつもあります。彼の映画には家族というものが満ち満ちているのです。例えば『我が家の楽園』ですね」。«Entretien avec Abdellatif Kechiche», dans Cahiers du cinéma, No.629, décembre 2007, p.19.
★2──逆さ言葉。後ろから言葉をひっくり返して作られるスラングの一種で、verlanという言葉自体が、「逆さまに(à l'envers)」のヴェルランである。その始まりは17世紀に遡るとも言われるが、現在、若者たちの間で頻繁に使用されている。例えば、女性を指すfemmeをmeufと言ったりする。
★3──Michel Chion, Le Complexe de Cyrano: La langue parlée dans le cinéma français, Éd. Cahiers du cinéma, 2008, p.166.
★4──Jacques Rivette, «Nous ne sommes plus innocents», dans Bulletin du ciné-club du Quartier Latin, janvier 1950, repris dans Hélène Frappat, Jacques Rivette, secret compris, Éd. Cahiers du cinéma, 2001, p.66.
★5──Les Inrockuptibles, No.628, 11 decembre 2007, p.54.
★6──Cité dans Tag Gallagher, The Adventure of Roberto Rossellini, Da Capo Press, 1998, p.297 (trad. fr. de Jean-Pierre Courodon, Les Aventures de Roberto Rossellini, Léo Scheer, 2006, p.411).



須藤健太郎 Kentaro Sudoh
1980年生。映画史。横浜国立大学博士後期課程在籍。


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