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「最大の奥義」としての経済──アガンベンと光栄(グロリア)の謎|ジョルジョ・アガンベン『王国と栄光──経済および統治の系譜学に向けて』|フェデリコ・ルイゼッティ 2008年01月21日

本書『王国と栄光』は、アガンベンが『ホモ・サケル』にて着手した野心的計画をさらに推し進める続編にあたる。系譜学的な探究によって西洋思想を支えるカテゴリーを脱構築すること。言語の一見した堅固さにあらがって、宗教、経済、政治、哲学、美学の諸概念をまたぐ「不分明の敷居」を見出すこと。かかる企図にふさわしい方法は、「西洋思想」のコーパスに埋もれた言語学─宗教的マトリクスがもつ複数性の再活性化にある。ちょうどあたかも諸観念の歴史が砕けた鏡にとらえがたく映るかのように、西洋が見かけ上保っている文化的な単一性は、ギリシア思想、ユダヤ教、キリスト教といった傾向からなる万華鏡のなかで屈折する。偽りの内在ともいうべき権威から思考を取り戻すことにより、アガンベンは哲学的想像力の空間を再発見するのである。

gloria

Giorgio Agamben,
Il regno e la gloria.
Per una genealogia teologica
dell'economiae del governo
,
Vicenza, Neri Pozza, 2007.

アガンベンによれば、西洋の政治史における最大の出来事はキリスト教の三位一体の教説に「オイコノミア」の概念が内挿されたことにある。「オイコノミア」とは、アリストテレスにしたがえば、家の経営を典型とした非政治的な領域をさしている。この限りにおいて、「オイコノミア」は規範や法のもとから外れており、さらには、さまざまな目的が「無─政府」的かつ実践的に割り当てられていくなかで行使されるのである。三位一体と「オイコノミア」とが接触した結果、グノーシスやユダヤ教では厳密に区別されていたはずの「無為な神deus otiosus」と「活発な神deus actuosus」が一方から他方へと絶え間なく移行するようになる。近代哲学思想の最大の過ちとは──アガンベンはその責をかたやルソー、かたや自由主義に帰すのだが──、政治と経済、主権と統治が互いに重なるキリスト教的な交錯をほどいてしまったところにある。それゆえにこうした対置の脱構築が必要とされるのであり、こうした作業によってこそ政治と経済の神学的な不分明が系譜学的に取り戻されることだろう。

西洋という神学─政治的な建築は実のところ、その基礎を空虚な函のうえに、つまり「人間の無為な中心」のうえにおいている。この空虚な中心は、「栄光(グロリア)」のアトリビュートによって塞がれる。曰く、「空虚とは『栄光』の至高の形象である」。「栄光」は、「結合すべきものを絶えず切り離し、そのたびごとに、切り離されたままであるべきものを再度結合させる」ことによって、主権と経済を再編成する。「栄光」は、移行(トランジト)の場であるかぎり、空虚な函にほかならない。「栄光」を考察することは西洋神学機械を脱構築することに等しいのであり、そしてここにこそ、フーコー的な考古学を、ウェーバー、シュミット、レーヴィットらが提起した世俗化をめぐるドイツの議論に接続するアガンベンの目論見がある。

『涜神』と題された論文集★1では、アガンベンは「世俗化」を「涜神」に対置させている。前者の場合、神学の諸概念が世俗の語彙のなかへと移行してきたのであり、それゆえ、権力は無傷のままである。これに対し後者の場合、聖なるもの──すなわち、神学的な装置によって隔離されたもの──は固有のアウラを失い、使用へ、新たな生きた形式に再び託される。冒涜するとは、聖なるものの範例に割り込むことであり、さらには、この次元を人間の経験へと開きながらも、侵犯しえない実在的な核があるという前提を受け入れることを意味する。世俗化が権力をふたたび発動させるのに対し、涜神は権力の機構を機能不全に追いやる。というのも涜神は、創造的な自己領有を行なうと同時に、現に隔離されているものを中和させるのである。

『王国と栄光』においても、アガンベンは世俗化と涜神のこの区別を手放さず、むしろ世俗化の概念があまねく援用される歴史記述のパラダイムのなかにこそ潜在的な涜神者を捜し出している。涜聖という意味において再読するならば、世俗化という用語は、俗なるものと聖なるもの、資本主義経済と三位一体的「オイコノミア」をショートさせる導線となりうる。世俗化にまつわる語彙は、あらゆる否定的なコノテーションから解き放たれ、ひとつの「署名」になる──すなわち、隠れた解釈コードや非共約的な各々の時代を戦略的に参照しつつ、さまざまな概念を徴づけ、超出し、転位させる「秘められたインデックス」となるのだ。フーコーの考古学的な指向は、目も眩まんばかりの逃走線へと向かい、その結果、教父学、頌栄(dossologie)★2、拍手・喝采による採決(acclamazioni liturgiche)、天使たちの賛歌(innodie angeliche)★3が検討されることとなる。

三位一体的「オイコノミア」に固有のものである行為と統治の形象を、ユダヤ思想──とりわけ神秘─カバラ主義の伝統──が神性のうちに数えていないのだとすれば、このユダヤ思想には、メシア的な任務を負い、神聖な無為に──この無為を世界の歴史性へと従属させることなく──向き合う用意がある。かりにも経済の謎が「栄光」であるのならば、「栄光」の眩い光に隠された「語りえない謎」とは神的な無為である。では、「救済をもたらす無為」はどこにあるのか。この問いに対する答えは経験である。すなわちそれは、無為それ自体の経験であり、アガンベンが、ハンナ・アーレントによって理論化された「観想的生」に結びつける「メシア的時間における生の特質」である。思想の任務とは、主権と経済の通底を中断させることにより、神学的「オイコノミア」に阻害されたある言語の形式を練り上げることである。まさにここにこそ、ユダヤ的伝統のメシア的操作がある。結局のところ、アガンベンにとって政治は、無為の領域へと到達しうるエクリチュールの美学へと転じる。潜在性の概念と文学の実践が引き受ける中心性は(とりわけ論文集『思考の潜勢力』★4に顕著だが)、まさにこのような視点から理解されうるものである。涜神的な操作はことばの神秘‐文学的使用と機を一にする。いかなる真の政治も思想の政治であり、ことばの経験──「カバラ」と詩──としての思考の経験である。

[訳・長友文史]



筆者紹介
このレヴューは、フェデリコ・ルイゼッティ氏(1968─)が本サイトのために書き下ろしたものである。氏は、トリノ大学で博士号(美学、解釈学)を取得後、ノース・キャロライナ大学准教授として比較文学を講じている。その関心は広く、アタナシウス・キルヒャーからべルグソンやドゥルーズ、百科全書派から現代美術館など、バロックから今日にいたる芸術と哲学に関する多数の論稿がある。近年は、とりわけ芸術の「場」をめぐる問題に注目し、ジャンニ・ヴァッティモや、ハンス・ベルティング、ハル・フォスターらが名を連ねた『美術館以後(Dopo il museo)』(2006)の編者を務めた。氏の来日中、イタリア現代思想に対する日米での関心の高まりが話題になったときに、本サイトのコンセプトを伝えたところ、レヴューの執筆を喜んで引き受けてくれた。『ホモ・サケル』から、『涜神』や『思考の潜勢力』を経由して『王国と栄光』へといたるアガンベンの「プロジェクト」を手際よく俯瞰してくれた、ルイゼッティ氏に感謝したい。

[文責・鯖江秀樹]




★1──Profanazioni, Nottetempo, Roma, 2005.(『涜神』堤康徳+上村忠男訳、月曜社、2005).
★2──神の栄光(グロリア)をたたえる詩句から始まる賛美歌。
★3──アガンベンは例えば偽ディオニシウスの天使学を参照している。
★4──La potenza del pensiero. Saggi e conferenze, Neri Pozza, Vicenza, 2005.



フェデリコ・ルイゼッティ Federico Luisetti
1969年生。哲学。トリノ大学美学・解釈学博士号。ノース・キャロライナ大学准教授。
主な編著書=Plus Ultra. Enciclopedismo barocco e modernità, Trauben, Torino, 2001; Dopo il museo, Trauben, Torino, 2006 (a cura di Federico Luisetti e Giorgio Maragliano).


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