SITE ZERO Review | サイトゼロ レヴュー

ここで立ち止まらないでください!|阿部真弓 2006年08月08日

無数の本に囲まれて(「読む」よりも本を「かたづけている」時間のほうが長いのではないか)、気が向けば展覧会へ出掛けてゆくこともある。重いカタログを持って帰途に着くことも、暗闇に沈んで、他なる「生」を垣間見ることも、少なくはない。おそらく、ここには、こうした「もの」について綴ることが、自然であるのだろう。けれども、もう一度「ながめ」ることを、あえてここで、言葉のうちに、持ち込んでみたいと思い、そのことを、今、たった今の悦びとするものとは何だろうか、と問うてみる。答えは、人、であるような気がした。

というのも、ここは、人やものを「見る」ことはあっても、けっして人「と会う」ことがありえない特異な「場所」であるのだ! 「この人」なるものが存在することのない「場所」である、ということは、自明のことであって、繰り返すまでもないことであるけれども、それは、たとえ、どんなにたくさんの人が「訪れ」ようとも、たとえ、万の人が、ここwebで言葉を交わして知り合い続け、誘い合おうとも、どこに隠れているというのだろうか、ひとの気配がほとんどすることのないこの「空間」の実に大きな特徴であるだろう。

人がいて/いない「ここ」で、そう、「あの人」や「その人」を呼び出して、誰とも、会えるはずのない「ここ」で、誰かと「ふたたび」人「と会う」ことは、あるのだろうか。このテクスト空間に与えられた、SITE ZEROという不思議な語の意味を、このような意味において、勝手に捉えて、いかなる者ともZERO相見えることのない、このSITEの「なか」で、誰かの名を呼びながら、文字を送り届けるとは、はたしてどのような営みであるのか、何よりもそれを知りたいのだ。まったく異なることを言いだすようであるが、それは、わたくしにとって、ここで、「失う」は、あるいは「忘れる」は、可能であるのか、という問いである。

会った人、会わぬ人、会いたい人、もはや会うことのない、未だ会わぬ、人、人たちについて記すこと、つまりその「名」をここに、呼んでみること。言葉を交わしたばかりの友であれ、夢の中で会う「像」であれ、いにしえの本の著者であれ。「名」を呼ぶ、この白い海の「うえ」に、名や像を「運び込む」という、たぶんに無為な試みのうちに、ここで何か「と会う」ということが、いったい何を意味し、いかなる感覚であるのか、ひょっとしたら少しは分かることがあるかもしれない。あるいは、「ここ」と限らず(「ひと」とも限らず、猫であれ、ものであれ、光であれ)、書物の、絵画の、フィルムの、記憶の中にも、わたくしが長い間「いる」と信じてきた人、必要ないきもの・ものたちは、「いる」ようで「いなかった」、そして「つねにふたたび」いるのだということを、確かめることになるのだろう。

それでもここで、ここでこそ「再び」を試みる者たちを、回想を企てる者たちを、予め一切が忘れられており、その為に、何も・誰も・何時も・何処も、覚えとめておくべきことが「ない」、この「窓」に映る「眠り」から、わたくしたちを目覚めさせにやってくる何か、何処かにあるべきはずの「もの」のために、浮標のようにして「名」が、置かれ続ける。そのように、出来事が待たれている、ということだけを考えれば、ここも、他所と、さほど違うわけではない。「誰も」いない場所で、「何か」が起こるということも、ありうるのかもしれず、「誰とも」会うはずのない場所においてさえ、「と会う」に必要なだけの時間が過ぎる、そうして其処で過ぎたもの、が、たとえば、このようにして此処で、忘れられたり、呼び出されては、測られたり、残されたりして、時には、ここにも「在る」、というのかもしれない。


7月29日。この春に長い改修作業が済み、久しく閉じていたレストランの開いた、港区の国際文化会館には、数えるばかりしか人がいない。白いシャツ姿の若い青年の2人組、会場での催しに訪れたらしい客たち、1人か2人の宿泊客が、続けて去ってゆき、しばらく式場の説明を受けていた1組の男女が、席を立って庭へ出てしまうと、とうとう誰もいなくなった、本館ロビーで、わたくしはひとり、人を待ちながら、1週間分がまとめて綴じられている新聞を、静かに読んでいる。いとこたちと一緒に廊下を走って遊びまわることは、さすがにもうないとしても、幼年期の記憶の中の建物が、今も在って、まったく同じように使われている、という、都心にあって希少な例のひとつである。3人の建築家(前川國男、吉村順三、坂倉準三)の共同設計によって、1955(昭和30)年に完成した、日本のモダニズム建築の代表的な作品でもある会館が、珍しく「修復」という解決を選んで、美しい「再生」をなしえたのは、学会を軸として行なわれた保全運動の結実であった。50年とは、ところ変えて、ここ数年研究の場をおいた、イタリアであれば、建造物や美術品、はたまた教会の中の備品等々が、「目録化」される権利を得るために要する、最低限の歳月である。

東京にあって、じつに危ういものとは、人の「同一性」を、あるいは都市のそれをすら、土地や場所、建築などの姿形に依ろうとすることなのであった。ロビーに置かれた椅子は、変わらずそのままであり(それとも、あたかも同じものであるように感じられるのだろうか)、そのことは、会館の近辺で消えて行ってしまって、文字通り「跡形なき」ものとは、生れ育った家や、休日訪れていた家々を、いま、幻のようなものとして想い出すならば、不思議とすら感じられてくる。嘗て、あるいはついこの前、並んで座り、言葉を交わしていた人々の居る気配が、まだあると言って、けっして誇張でない。何もない時にやってきて、遠い日の祝い事の余韻が、ほとんどそのままに、ある。新聞をめくる音だけがしており──「われわれは、何によって、時間を測るのか」?

人が現れたので、この庭の緑には、もっと手を入れたほうが良さそうだ、と言われて、はじめて外に眼を凝らし、席を移してから温かいものを飲み、ぴかぴかしている屋上庭園の砂利に横目をやり、ではそろそろ、と会館を出て、鳥居坂を歩いてゆく。ロアビルの角を曲がって、土曜の夕べの喧噪を抜け、六本木から地下鉄に乗りこみ、たしか東銀座で乗り換えて、隅田川の喧噪へと向かった。銀座の辺りを過ぎると、祝祭の空気に満ちてきて、次第に窮屈になってゆく、人の塊と一緒になって、もうこのあとは、ただ付いていけばよいのだ。といっても、待ち受けていた浅草の群衆のなかに混じってみると、警官たちが、立ち止まってはいけません、と繰り返し叫んでいて、人波の流れに委ねられるがまま、はっきりどこへとも知らず、首から上は仰向けつつ、とにかく進んでゆかなくてはならない。

「ここで立ち止まらないで下さい! これは、止まって見る花火ではありません! どんどん進むように御願いします!」。1730年頃始まった両国川開きの花火を、路上で鑑賞しようとやって来る、100万人弱の群衆のほとんどは、交通規制された大通りを、警官たちの声に挟まれて、押し合いへし合いというほどでもなしに、宙の金色にどよめきながら、ゆるゆると流れてゆく。そうして流されている間中、わたくしたちには、次々打ち上げられてゆく花火を、立ち止まって眺めることが、禁じられている。

[東京、2006年8月7日]


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