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新たなる編集者論のために|石橋正孝 2006年10月02日

ポール・ベニシューは、その著『作家の戴冠』において、啓蒙主義とフランス革命の打撃で衰微した教会権力に代わる精神的権力として「作家」が覇権を掌握する過程をロマン主義に見ている。しかし、この覇権が実のところ極めて短命だったのではないかと述べるのは、碩学の出版史家ジャン=イヴ・モリエである。彼によれば、1780年(『百科全書』完結)から1830年(七月革命)に至る期間とは、「作家」を新たな司祭や預言者に仕立て上げると同時に、「編集者」というもうひとりの「登場人物」の覇権を準備した時代でもあった。「編集者(éditeur)」という語が「出版業者(libraire)」とは明確に異なる意味を付与された1835年前後に幕を開けた「編集者」の時代は、1860年代に最初の変化の兆しを見せる。出版業の資本主義化に伴って巨大化した出版社において、éditeurは、経営者であるpublisherと実際に作家と関わるeditorに分裂することを余儀なくされる。publisherの右腕的な秘書、それ以上に専門のlecteur(査読者)がこの後者に相当し、後に制度化されて「原稿審査委員会(comité de lecture)」となる。とりわけ文芸出版の老舗ガリマール書店のそれは、レーモン・クノーやルイ=ルネ・デ・フォレといった高名な作家を擁してその文学的判断に一定の信頼を寄せられるようになるだろう。ところが、ある時期からこの信頼が、ガリマール書店改めガリマール出版によって完全に踏みにじられていたという抗議の声があがる。1988年、この出版社のために永らく務めた査読委員の職を逐われたばかりの詩人ミシェル・ドゥギーが刊行した『委員会──巨大出版社のある査読者の告白』がそれである。

Deguy

Michel Deguy
Le comité :
confessions d'un lecteur
de grande maison

ジャン=イヴ・モリエは、「原稿審査委員会」の答申が一顧だにされなくなっている現状からドゥギーが受けた生々しい屈辱感に当然の同情を示すものの、そもそも「委員会」は資本主義の論理が生み出したものである以上、NRF(ガリマール社の文芸誌および文芸部門)の黒幕としてほとんど神話的な権勢をほしいままにしたジャン・ポーランなどは、結局のところこのあからさまな現実を隠蔽する役割を果たしていたにすぎないのではないか、と突き放す。いささか挑発的とも映るこの冷淡さは興味深い。例えば、一代で巨大出版社を築いたミシェル・レヴィとその後を継いだその兄カルマン・レヴィが作家との折衝に重用したノエル・パッフェは、かつてデュマやユゴーの秘書として彼らの信任を得ていた人物であり、それでも最初のうちは、彼が「編集者」との直接交渉を遮ることに対して作家たちの間には抵抗感があったという。「編集者」は単なる商人ではなかったのだ、とモリエが続ける時、ドゥギーへの彼の同情の奥底にひそむ冷淡さがあるファンタスムを背景としていたことにわれわれは気付かされるだろう。一言でいえば、1830年代からの半世紀に活躍した「編集者」たち──ルイ・アシェット、ジェルヴェとジョルジュのシャルパンティエ父子、ミシェル・レヴィ、ピエール・ラルース、レオン・キュルメール、ピエール=ジュール・エッツェル、等々──には、多かれ少なかれ、書き手にとって抗しがたく魅力的に感じられるなにかがあるのだ。そして、その場合、それは彼らが単なる商人ではなかったから、ではなく、むしろ彼らが商人でもあったからこそ、というべきだろう。フランス語のéditeurが英語のpublisherとeditorをともに内包している事実にも現われているように、19世紀フランスを代表する「編集者」たちは、作家と個人的にも深く関与するだけではなく、自らの名を社名に冠する存在でもあった。文学、経済、政治の3つの異なる価値の次元を調停し、そのそれぞれで犠牲を最小限に留めて最大限の成果を収めるべく尽力するという「編集者」の理想像を作家と共有できるかのように思われるのは彼らしかいないし、彼らは彼らでその期待に応えようと(あるいは少なくともそう見せかけようと)していた。その彼らが毀誉褒貶に曝されがちなのは無理もない話で、そこで問題になっているのが現実そのものではほとんどなく、あくまで書き手の側のファンタスムだからである。

厄介なのは、われわれが著者たらんとする限り、このファンタスムが不可避だということだ。言論を特定の名において「公表」する者というその定義からして「公共」的たらんとしない著者はありえない以上、何らかの形で理想の「編集者」を超自我的存在とせざるをえず、仮にそれがインターネットの個人サイト上であっても、自らの編集者になることなしには──ということは、理念としての編集者を内面化することなしには──誰も書き手たりえないのである(このあたりの消息については、高橋輝次『編集の森へ──本造りの喜怒哀楽』(北宋社、1994)に中井久夫が寄せた「執筆過程の生理学」という一文[『家族の肖像』(みすず書房)に再録]が参考になる)。ある作家──特に「編集者」の時代(それは20世紀まで延長しうる)のフランスの作家(バルザック、ユゴーといった自らの編集者から、エッツェルのヴェルヌ、ガリマールのプルーストを経てランドンのヌーヴォ・ロマンまで)とやはり同時期のドイツの作家(コッタのゲーテ、ローヴォルトのカフカ、フィッシャーのマン、ズールカンプのヘッセ……)──とその編集者の関係をある程度トレースするだけで作家論ができてしまうのもこのためで、この意味では、すべてのテクストがその著者と編集者の物語に読めてしまうというジャン=ルイ・コルニーユの主張はおそらくそれほど的外れではないものの、それもまた書き手のファンタスムである点に変わりはなく、彼自ら嘆くごとくその著『文学への憎悪──セリーヌとプルースト』をはじめとする議論が黙殺されたとしても、それは、著者たらんとする欲望の核心を語ることで著者たらんとする振る舞い──それを極限的ともいえる形で実践してしまったのがアントナン・アルトー『ジャック・リヴィエールとの往復書簡』(邦訳=『思考の腐蝕について──アントナン・アルトーとジャック・リヴィエールとの手紙』飯島耕一訳、思潮社、1967)であった──に本質的な気恥ずかしさに対する彼の無防備にこそ、その主たる原因は求められるだろう。

書き手たらんとする者が、理想の「編集者」に認められてその欲望が成就するのを心密かに願っているとして、このファンタスムの恥ずかしさを本能的に熟知する書き手は、万人周知の事柄をあたかも大発見のように騒ぎ立てる者を前にしてしまったら、その時は見て見ぬふりをするほかあるまい。著者たらんとすることは本質的に恥ずかしい。かといって、一切のファンタスムを断念するという身振りは唾棄すべき欺瞞でしかありえない。ならば、せめてより少なく著者たらんとするというわけだ(そして、他方の「編集者」は、自らの貢献を否定することで、彼ないし彼女が書き手とともにそれに依拠する「著作権」を支える著者という虚構を成立させる点で、書き手の側の抑圧と歩調を合わせる)。だが、著者の権威を無反省に強化する者と、そのことに消極的に手を貸す者との間に果たして質的な差異はあるだろうか。このどちらでもなく、同時にどちらでもあることが書き手には求められるのではないか。そして、そうしたエクリチュールはまさに編集者論においてこそ可能にはならないか。──こうした(それ自体気恥ずかしい)夢想が単なる夢想ではないことを、40年以上の長きにわたってドイツ出版界に君臨したズールカンプ社社主ジークフリート・ウンゼルトの労作『ゲーテと出版者──一つの書籍出版文化史』(西山力也ほか訳、法政大学出版局、2005)とフランス最後の「大編集者」ジェローム・ランドンを追悼するジャン・エシュノーズの小著がそれぞれ全く異なる形で示しているように思われる。


欧文書誌(直接・間接に本文中で言及したもののみ)
・ Paul Bénichou, Le Sacre de l'écrivain, Paris, Gallimard, « Quarto », 2004.
Revue des Sciences humaines, N° 219, « L'écrivain chez son éditeur », 1990 (Jean-Yves Mollier, « Le comité de lecture. Bis », etc.).
Travaux de littérature, N° 15, « L'écrivain éditeur : 2. XIXe et XXe siècles », 2002 (Jean-Yves Mollier, « Ecrivain-éditeur : un face à face déroutant » ; Stéphane Vachon, « Le cas de Balzac écrivain-éditeur » ; Martine Reid, « George Sand : l'art et le métier » ; Claudine Millet, « Hugo, Lacroix, Verboeckhoven et Cie : « l'affaire chap. prél. », ou Hugo co-éditeur de son œuvre », etc.).
・ Bertrand Legendre et Christian Robin (éd.), Figures de l'éditeur, Nouveau Monde, 2005 (Jean-Yves Mollier, « Naissance de la figure de l'éditeur » ; Jean-Louis Cornille, « La mort de l'éditeur », etc.).
・ Jean-Louis Cornille, La Haine des lettres : Céline et Proust, Arles, Actes Sud, 1996.
・ Michel Deguy, Le Comité : confessions d'un lecteur de Grande Maison, Champ Vallon, 1988.
・ Jean Echenoz, Jérôme Lindon, Paris, Minuit, 2001.



石橋正孝 Masataka Ishibashi
1974年生。ジュール・ヴェルヌ研究。東京大学大学院総合文化研究科博士過程単位取得退学、パリ第8大学博士課程修了。ジュール・ヴェルヌとその編集者エッツェルの共同作業とそれを支える編集メカニズムに関する博士論文で2007年4月にパリ第8大学で博士号を取得。引き続き、ヴェルヌ研究に従事するとともに、大西巨人を中心とする現代日本文学も論考の対象としている。
共著=『Jules Verne : les machines et la science』。論文=「ウィルキー・コリンズから大西巨人へ」など。


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