SITE ZERO Review | サイトゼロ レヴュー

カマトト礼賛──カレル・チャペックから舟崎克彦へ|石橋正孝 2006年12月18日

待望久しかった『チャペック戯曲全集』(八月舎)を手にしたものの、初訳の戯曲を読む愉しみをできるだけ先に引き伸ばしたくて、表紙を撫でつつちびちびと嘗めるように拾い読みをしていると、やはりどうしても『RUR』に戻ってくる。「ロボット」という言葉を「発明」したことで名高いこの作品は、周知の通り、世界で最初のロボット生産工場ロッサムズ・ユニヴァーサル・ロボッツを舞台にしている。ロボットが労働力として世界に行き渡るのとひきかえに、女性が子供を産めなくなってしまったことが明らかになりつつあった時、ロボットによる革命が勃発し、ただ一人を除いて人類は皆殺しにされる。ところが、ロボットには再生産の能力がない。そこで、一人だけ見逃された建築家の老人が破壊されてしまった製法の秘密を再発見するようロボットに責め立てられるのだが、ある日、彼の助手をしていた男女のロボットの間に「愛」が芽生えていることに気づき、彼らを祝福とともに送り出したところで幕となる。

haskell

『チャペック戯曲全集』

多くの人にとってなじみが深かろう作品の物語をあえて粗雑に辿り直してみたのは、その奇妙さを改めて強調してみたかったからだ。確かにここでいう「ロボット」はこの語が日本語として普通に想起させるような無機質な機械ではなく、フランケンシュタイン博士の「怪物」を洗練させたがごとき「人造人間」ではある。とはいえ、ロボットの製法がロボット自身の外部に彼らとは独立して存在する以上、たとえ「愛」が生まれたとしても、それが即「生殖」に結びつくのか──端的に言えば、新しきアダムとイヴたる一組のロボットが舞台から退場した後、われわれ観客の視野の外で彼らは一体なにをするのか、というのは、もちろん、野暮な問いである。そもそも、単なる労働力のはずのロボットに性差を設けたのはなぜなのか(それは一定の「知性」の醸成に不可欠なのか、使用する側の都合によるのか)、その性差はどのレヴェルにまで及んでいるのか、それともここでわれわれは「性」それ自体の発生の現場に立ち会っているのか、と考えを進めると、問いはとめどなく広がっていくのであって、そうした可能性そのものを確保しているのがまさにチャペックの「カマトト」にほかならないのである。彼の魅力はこの極めて危うい「カマトト」にあって、実際、それが崩れている小説『クラカチット』(楡出版)や戯曲『マクロプロス事件』では、思わず息を呑むほどに濃厚な性愛の風土が噴出している。

その時ふと思うのは、チャペックがチェコの「国民作家」だという──出所も真偽のほども定かならぬ──風説である。然々の作家がなにをもって「国民作家」と目されるのか、寡聞にして知らないが、「老若男女」に「安心して」読まれうる、ということが大きな基準となるのはまず間違いないところだろう。こうした「カマトト」を小説が大掛かりに受け入れたのが19世紀のイギリスであり、その代表格たるチャールズ・ディケンズがシェイクスピアと並ぶ英国の「国民作家」である事実をここで思い合わせてもいいし、また、漱石というもう一人の「国民作家」(と呼んでいいのかというとやはりかなり躊躇を覚えるが)を合流させてもいい(フランスであればコゼットやガヴロッシュのユゴーだろうし、アメリカは『トム・ソーヤ』のマーク・トウェインだろうか)。この3人に共通するのは、その作品の一部が明示的に子供向けだったり、そうでなくても児童に与えられたりすることがある、ということだ。『ながいながいお医者さんのはなし』(岩波少年文庫)など、チャペックの童話は名高いし、ディケンズには『クリスマス・キャロル』がある。漱石はといえば、『坊ちゃん』はもちろん、おそらくは動物が主人公であるという恐るべき理由で『吾輩は猫である』が児童向けの文庫に収録されており、かくいう私も小学生の時にそれを読んだ一人であった★1。

児童文学こそ、「カマトト」が積極的に求められ、推奨される領域であるのはいうまでもない。しかし、そこで「カマトト」それ自体が欲望でもある可能性を考えるうえで助けになるのは、児童のためにも書く「国民作家」ではなく、児童文学作家である。この点で興味深い作家が日本には存在していて、それが「ぽっぺん先生」シリーズで知られる舟崎克彦である。舟崎が興味深いのは、圧倒的な数の児童向け作品に比べれば数にして5冊とほとんど無に等しいとはいえ(短めの長篇3作、短篇集1冊、連作短篇1冊)、大人向けの作品も書いていて、それらがいずれも、大人向けであると誇示するかのように文字通り「アダルト」であることだ。と同時に、そこで支配的なのは性に対する罪障感である。『暗くなり待ち』(白水社)の近親相姦然り、『鐘は鳴り 私はのこる』(朝日新聞社)は、イギリス人女性との性器を交えるには至らない性戯に明け暮れる男が最終的に性交という形での愛の対象の「所有」を断念する物語である、といった具合に、それはほとんど露骨にすぎるともいえる。

なかでも珍品というべきは、最も古い『ゴニラバニラ』(角川書店、1975)で、筋としては、例えば、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』のように完全に成人儀礼をなぞりつつも、あからさまに性的な要素を持ち込んだ「童貞喪失小説」へと過激にパロディ化している。舟崎の代表作というべき『ぽっぺん先生と帰らずの沼』(岩波少年文庫)と『ぽっぺん先生と笑うカモメ号』(岩波少年文庫)の間に出版されたこの小説に「ぽっぺん先生」シリーズの裏ヴァージョンを見るのはたやすい。ぽっぺん先生と『ゴニラバニラ』の主人公である折伏訪(おりふし・たずぬ)はともに、学者の父からその専門(前者は生物学、後者は民俗学)と蔵書、感電する呼び鈴を持つ広壮な屋敷を受け継ぎ、「ちょうだいなく、えんりょします!!」という口癖を共有しているし、ぽっぺん先生と折伏訪の父・萎(しぼむ)の勤務先はともに「独活大学」である。それ以上に、駄洒落に由来する数々の妖怪を登場させ、文明によって放逐される彼らの「鎮魂」というテーマを共有している点で、『ゴニラバニラ』は、「ぽっぺん先生」シリーズのなかでもとりわけ『ぽっぺん先生と笑うカモメ号』と姉妹作的な関係にある。だが、彼のあまりの優柔不断に疲れた恋人に物語冒頭で見限られ、河童に尻子玉ならぬ金玉を抜かれた訪が、種違いの妹との近親相姦の誘惑に曝されつつ、最終的に彼の元に戻ってきた恋人とようやく性的に結ばれて終わる『ゴニラバニラ』に対し、永遠の独身者ぽっぺん先生★2は、前作『帰らずの沼』におけるメスのカワセミとの関係がそうであったように、カモメと相思相愛の関係になりながらも結ばれずにけんちん汁を作る「バアサン」こと母親の待つ家へ(常のごとく)帰っていく。この違いは、父を早くに亡くして女手ひとつで育てられたぽっぺん先生とは異なり、母親を知らない訪が彼を育てた同性愛者である抑圧的な父を失うところから『ゴニラバニラ』が始まるという鏡像関係に対応しているだろう★3。

問題は、女性器を「伸縮する円空」という即物的な形態に還元する操作(短編集『獏のいる風景』[筑摩書房]の劈頭を飾る「ドーナツ化現象」も、女性であるドーナツ[!]と同棲生活を送る男が自身もドーナツと化す話だった……)のうえに『ゴニラバニラ』全篇が成立しており、大人である書き手が子供のふりをする児童文学こそが、甘美に性的な環境としての恐怖において、こうした感性がそれと通底する少年期特有の性に対する脅えと出会うための最上の場を成している、ということなのだ★4(舟崎はまた、実際には大人でありながら子供のふりをしなければならないという倒錯的な立場にある漫画『名探偵コナン』の主人公の主要な発想源のひとつと目される「名探偵ピカソ君」の生みの親でもあった★5)。舟崎に限らず、最良の児童文学には甘美なる倒錯としての「カマトト」があって、われわれの幼年期の生を充実させた幻想を密かに育んでいたのである。




★1──ちなみに、漱石にテーマのみを共有する「3部作」があるとすれば、チャペックにも同様の「哲学3部作」(『ホルドゥバル』『流れ星』『平凡な人生』[以上、3作ともに成文社])があり、いずれも新聞連載小説であった。
★2──独身の動物学者という点で、ぽっぺん先生とドリトル先生の比較もいつの日かなされるべきだろう。
★3──『鐘は鳴り 私はのこる』の主人公も大作家の父の遺作の印税で食いつなぐ身であり、『暗くなり待ち』で近親相姦の末に自殺する姉弟の父も評価の高い劇作家であり、『ぽっぺん先生と笑うカモメ号』では、幼児に退行したぽっぺん先生が幼い頃の過ちを父親に叱責される等、いやでもフロイトを想起させるほど父の存在感が尋常ではない。
★4──ついでに言えば、舟崎克彦の処女作および第2作であり、いずれも、その後離婚することになる妻・靖子との共著である『トンカチと花将軍』(福音館文庫)および『野ウサギのラララ』(理論社)が、女性キャラクターがまったく登場しないか、してもシスターであるという奇妙に脱性化された世界で、その代わりと言うべきか、トンカチ少年が探す行方不明の白いイヌ「サヨナラ」や野ウサギのラララ自身のように、白くてふわふわした存在が問題になっているのは興味深い。
★5──現在3巻までパロル舎より刊行。そのうち第1巻『ピカソ君の探偵ノート』は、雑誌初出1981年、単行本1983年刊(福音館書店)。青山剛昌『名探偵コナン』は1994年刊行開始。



石橋正孝 Masataka Ishibashi
1974年生。ジュール・ヴェルヌ研究。東京大学大学院総合文化研究科博士過程単位取得退学、パリ第8大学博士課程修了。ジュール・ヴェルヌとその編集者エッツェルの共同作業とそれを支える編集メカニズムに関する博士論文で2007年4月にパリ第8大学で博士号を取得。引き続き、ヴェルヌ研究に従事するとともに、大西巨人を中心とする現代日本文学も論考の対象としている。
共著=『Jules Verne : les machines et la science』。論文=「ウィルキー・コリンズから大西巨人へ」など。


ページの先頭へ