SITE ZERO Review | サイトゼロ レヴュー

「──もうすぐ着くところ。」|阿部真弓 2007年01月15日

皆揃うのを待ちながら会話を繰っていた。冬のある日の、東京に戻ろうかという、出発の2日前のことである。ボローニャの友たちにとって、東京はといって、ただちに連想されるのはSHIBUYAという界隈をTETSUOが壊してしまうだとか先日ようやく『浮き雲』を見ることができたといったことになる。ならば東洋の友人が、というのはわたくしが明後日帰ってゆこうとしているのは、たぶんに具体的でなく、ここで、あらかじめ平面的な空間であるのだろうか。午を未だ、過ぎていなかった。16世紀の画家の展覧会を観る約束になっている二十数人が、考古学博物館前のポルティコの下にだんだんと集まってきて、群をなすとすこしは静かになる。それで中庭の回廊のほうへと歩を進めると、その先で音声機がめいめいに手渡された。黒い機械を身に着けて展示室に入って黙して聴くのは、録音された解説ではなく、眼前の美術史家がたったいま口にすることであり、その光景は、課外授業にもツアー旅行の一場面にも似ている。イヤホンを付けている同士の眼が合うこともあって、その皆が皆、同じ言葉同じ言い淀み何かしらの同じような摩擦音を耳にしつつ、画布をともに眼差してゆくことが企図されている。作品解説は、画面の細部かどこかを、およそ50個の眼球が一斉に目指してゆくためのかけ声としても機能しているので、視線の到着する間近に響くアナウンスでもある。ただ、逸話を呼び入れては脱線してゆく、テクストに反して、順路から逸れることの許されない聴き手たちは、律儀にカタログをめくるかの如く歩む。声に従って展示室のなかを動く。否、必ずしも作品の正面に時機よく立ちエクフラシスを聴き「ながら」額縁の中の像たちを追うことができるとも限らない。

その回顧展の画家アンニバーレ・カラッチと同じように、無線通信技術を発明した科学者グリエルモ・マルコーニもまた、ボローニャの人であったということは、ここに書くまでは忘れていて、そのまま忘れられたままで困らない。およそ無関係な照合であって、ある土地に出掛けて行って、もしかしたらふと思ったかもしれないくらいのこととは、展開に至るものでない接触である。あるいは、接触にすら満たぬ、それは接近である。が、美術館にある音声ガイドであれMOBILEに届く通信文であれ、不可視の波動のうちに運ばれて届く声や文字が、テレパシーと呼ばれるものの(すでに習慣化された)疑似体験であるということは、たしかにそうとも感じられてきて、そうして大きくて古びている機械を通して耳に伝わってくる文を聴き「ながら」油絵のほうへ歩み寄ってゆく時に、無線通信実験の大西洋横断を成し遂げた後のボローニャで電線に鋏を入れて街の人々に囲まれている電信柱の上のマルコーニを描いた、新刊の中で見たばかりのポスターの図が思い浮かべられて、次いで「もしテレグラムがテレパシーだったらいいのに」と言っている時のヒッチコックの『疑惑の影』のチャーリーの屈託ない表情の見られる電話局のシーンが過っていった時には、接近それとも帰還あるいは旅程を「前もって知らせておく」ということは、どういうことなのだろうという問いが、のみならず答えも、が──「旅するとは何か。人に会うということ」──何とはなしに近づいていた、というのかもしれなかった。チャールズは「木曜に着く」と電報を打って、それからもくもくと黒い煙を上げて映画のなかでは汽車が、着く。そのあとにわたくしたちが居合わせることになるのは、個性や類似や贈与といったものによって均衡が崩れてゆくさまであって、ふたたび汽車が去ってゆくまでの、その経過というのは、危うく崩されかけるものの側の時間の様式に属するのであるから、美しいシンメトリーのなかでサスペンスが解かれてゆくまで、というのは似ても似つかぬものの影が換骨奪胎されてしまうまでの、時はつねに、緩やかであろうとする。

人自ら気配の感知装置である必要はもうそうない。合図を送り合う手段も位置確認を行なうための装置も数多く、内容は定型を模し頻度を増し匿名性をも高めてゆく。そうして知らせながら近づき合い近づいてゆく。しかもそれが近づいてくるものによって接近が予示されるという決まりごとに慣れるということでもあるならば、とりわけ音も立てずに忍び寄ってくるものに対しては次第に無防備になってゆくということもある。始終導かれているということもありえ、ふらふらとする間いつのまにか到着していたということはいっそう珍しい。ひょっとすると偶然を寄りつけないためではないかというほどの几帳面さをもって、たったいま過ぎつつある閾を間断なく名指し、記して、いる。改札を抜けこちらに向かってくる友と互いを認め合ってぱっと目配せの交わされる間際という、どちらが先にどちらかの目に留まったというのでもない接近の曖昧な瞬時に、地下鉄のなかから発信されたらしい文が、届く。じき着くところであると知らせようとし、今か今にもと逼ってくるかのところで文字にされた、それは到着の告知であった。それは前触れであったはずで、かくも短い遅延をみてしまえば、もう、近づいてくる彼女の、あるいは瞬間そのものの──これは、接近なのか、到着なのか──描写である。

(1月11日、東京)


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