SITE ZERO Review | サイトゼロ レヴュー

「シアタープロダクツの現場」展|小澤京子 2007年02月13日

この展覧会の立役者であり展示対象でもあるシアタープロダクツ(THEARE PRODUCTS)は、その名に冠された「theatre」の語が端的に示す通り、服を作って見せて売るという一連のプロセスを、スペクタクル的ないしパフォーマンス的に行なっているアパレルブランドだ。とは言え、純粋なアート志向でも職人志向でもなくて、あくまで「現代における衣服=大量生産品・商品(products)」であるという点を、確信犯的に自覚して活動している。

theatreproducts

シアタープロダクツ

2001年の設立から現在まで、彼らはアパレル界では一風変わった活動形態を採りつづけてきた。食糧ビル内にテントを作っての展示会(ほとんどインスタレーションと言ってよい)、ダンスユニットKATHYや「日本で最小」のマジシャンであるマメ山田のパフォーマンスを導入したファッションショー(演劇的という以上にサーカス的)、生きているマネキン「コデマリイ」の展示(活人画的なスペクタクル)、バーゲンセールの時間帯を、商業施設はあらかた閉店する深夜に設定した「真夜中のセール」(お伽話的な祝祭空間の出現)などである。あるいはまた、1枚の布状になったTシャツを顧客めいめいが剥がして買っていくという企画や、店舗内部の壁面に積みあげられた枠だけの椅子(川俣正のインスタレーションを穏健にしたような)が実は購入可能な商品であり、売れるにつれ店舗インテリアが変わっていく仕掛けなど、本来はメーカー側の手の内に置かれている商品の販売プロセスに顧客(≒観客)を引き込み、その行動を一種のパフォーマンスに仕立て上げるプロジェクトも継続的に行なっている。その活動からは、本人たちも自覚的に規定しているとおり、大量生産品の衣服を使ったパフォーマーと呼ぶべきかもしれない。

今回の展覧会では、展示品の数はそれほど多くはない。会場を入るとまず、天井から大量の花柄スカートが吊るされている。黒地に鮮やかな黄水仙の描かれたロングスカートの密生は、まるでジャングルに生えた蔓性植物のようで、観客はそれをかき分けて進まなければならない(メンバーいわく、服が量産され、多くの人のもとに届いていくという過程を象徴的に表わしたものだそうだ。このスカートと同じ商品が、ミュージアムショップにて販売されている)。

スカートの森を抜けると、ベニヤで作られた書割のような、あるいは実物大のドールハウスのような空間が現われる。シアタープロダクツの事務所がそっくりそのまま、ミュージアム内に移転してきているのだ。洋服を作るバックステージのプロセスも、展示品になっているという仕掛けである。展示品としての事務所の前には、いくつか椅子とベンチが置かれ、スタッフたちの活動を腰掛けて眺められるようになっている。アンティークの家具や業務用のミシン、トレードマークになっている枠だけの椅子が並び、奥の壁には商売繁盛祈願の熊手が掛かっているという、小洒落た趣味のなかに微笑ましい生活感の垣間見られる空間だ。私が行ったときには、デザイナーの2人と数人のショップスタッフらしき若い女性たちがなにやら真剣に打ち合わせをしており、奥では若い男性スタッフがパンダの描かれた「引越しのサカイ」のダンボール箱を開封していた(この引越しに用いられたパンダのダンボール箱は、その後PARCOの入り口付近にきっちり立方体に積み上げられ、人目を引くオブジェとなっていた)。その舞台装置の内側で働くスタッフたちは、観客と口を聞いたり挨拶を交わしたりはもちろん、視線すら合わせずに、あたかも外側から見られているという状態が存在しないかのように振る舞っているのだが、やはり不慣れな環境のせいかぎこちなさが漂っていて、観るほうも気まずいようなくすぐったいような気分にさせられる。舞台の上の演者というスタンスに立つパフォーマンスには、完全にはなっておらず(そこで行なわれているのは現実のスタッフたちによる通常業務なのだ)、そうかと言って観客が覗き見趣味者の立場に置かれているわけでもない(それは正々堂々と開け放たれた空間であり、見ることを強制される展示品である)。状況の規定しがたい曖昧さ――通常の意味での作品でもパフォーマンスでもないものが、ミュージアムと名指された空間の中に展示品として置かれている――ゆえに、なんだか妙に落ち着かないまま、事務所で生起している諸々を見守る羽目になる。

その次には、シアタープロダクツの服を纏ったモデルやクリエーターたちの集合写真、1枚のビニールから剥がして購入できる花柄バッグ(イッセイミヤケのA-POCのような感じ)などが壁に貼ってあり、さらにその奥には、各シーズンのコレクションから代表的なデザインをピックアップした、サンプル品展示コーナーがある。さらに奥まったところにはテレビが1台あって、過去のショーの様子が延々と流れていた。

今回のエキシビジョンに合わせて発売された書籍『THE BOOK OF THEATRE PRODUCTS シアタープロダクツのメソッド』(リトルモア、2007)の帯には、「ファッションは、あらゆる場所を劇場にします」と書かれている。だがシアタープロダクツの服それ自体には、演劇的という形容はあまり妥当しないように思われる。そもそも彼らのデザインには、一貫した特徴のようなものがほとんど見受けられない。敢えて挙げるならば、洋服を構成するありふれたエレメント――植物模様やレース、ギャザー、バックルなど――を明らかに過剰に仕立て上げるという点に、「シアタープロダクツっぽさ」を見出せるのかもしれない。しかしながら、製品ないし衣服そのもの、あるいはその系列に強力なメッセージ性を内包させるタイプのデザイナーたち(わかりやすい例で言えば、川久保玲やフセイン・チャラヤンなど)とは、彼らの服作りは一線を画しているだろう。シアタープロダクツは、あくまでも服を作り売るプロセスが劇場的なのであり、顧客(消費者)はそこに参加する「観客」なのであって、個々人が服を纏い消費するモメントは、このブランドの言う「劇場」とはまた別のスペクタクル空間に属している。

大量生産や商品流通、そこに介入する広告といった諸事象をアートの領域に移植した作品は、ポップアートやシミュレーショニズムと呼ばれるカテゴリーをはじめ、数多く存在している。あまりにも有名な逸話であるが、ウォーホルは自らの制作工房を「factory」と呼び、芸術作品の制作に機械的生産の装いを纏わせることで、ロマン主義的な芸術家・作品概念を粉砕しようとした。シアタープロダクツが行なっているのは、このような近現代アートとは逆向きのプロセスである。つまり、あくまでも商品であるモノと、それを取り巻く一連の工業的・商業的プロセスを意図的に「展示」することで、商品の商品性を保ちつつ(聖別された「作品」に仕立てることなく)、それをインスタレーションやインタラクティヴ・アート、フルクサス以降のパフォーマンスなどに近接した、ある種の芸術ジャンルへと陥入させてしまうのである。

だから彼らは、例えば「アートとファッションの融合」といった謳い文句から直ちに連想されるような、衣服を芸術作品のためのメディウムないし支持体として用いるアーティストたち――ヤン・ファーブル(昆虫を敷き詰めた甲冑ドレス)や小谷元彦(オオカミの剥製ドレス)、草間彌生(布製のファロスが蝟集するドレス)ら――とも、あるいは古典的な「作品」概念に依拠した、一点物、手仕事志向のデザイナーたち――例えば、2004年に同じくPARCOミュージアムでエキシビジョンを行なったスーザン・チャンチオロ――とも異なっている。

ファッション界のプロダクトを「商品」という側面から見たとき、それに対して欲望を喚起させるための装置が、近年とみに複雑で巧妙になってきているように思う。シアタープロダクツは、間違いなく今の日本でいちばん面白いブランドであるだろうが、しかしそこにあるのは大多数の人々に好意的に受容されうるような、いわば飼い馴らされた「新しさ」でもある。ファッション界では異端児と目される彼らの活動は実のところ、近現代アートや演劇・パフォーマンスの分野で、かつて「前衛」と呼ばれてきたものの踏襲という側面も強い。コラボレートするクリエーターやアーティストたち、起用するモデルたちの人選も、ショーを行なう場所の選定もあまりにも趣味がよくて、そこにはごく僅かながら違和感のようなものすら感じてしまうほどだ。さまざまなパフォーマンスの意図を、作り手側が完全に知的に説明できてしまう点や、前述の『シアタープロダクツのメソッド』に収められた対談での、美術批評家松井みどり氏との共犯関係も含めて、「知的でアーティスティックなファッションブランド」という印象を形成し強化するような、いわばサイドストーリー構築が抜群に上手いのだ。そしてそのような、商品としての衣服とその作り手であるブランドの、それ自体ではなくその周りを巡って展開される物語こそが、観客ないしは読者としての立場に置かれた消費者の、欲望と消費の対象なのである。シアタープロダクツにもし「特殊性」や「斬新さ」があるとすれば、それは彼らの製品や劇場的パフォーマンス自体にではなく、それらを包み込む大きな言説空間とその構築プロセスの中に存在するのではないだろうか。

色とりどりの美しい服と趣味のよい什器の並んだ空間は、どこか祝祭的で気持ちを高揚させてくれるけれど、それ以上に、日本のファッションやそのマーケティングで起きている、もしかしたらとてつもなく新しいかもしれないことに、思考を巡らせるきっかけを与えてくれる、そんな展覧会であった。


巡回予定:
PARCOミュージアム(東京):2007年1月12日―29日
graf media gm(大阪):2007年2月10日―3月11日
三菱地所アルティアム(福岡):2007年春以降



小澤京子 Kyoko Ozawa
1976年生。表象文化論、美術史・美術理論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍。
主に18世紀の建築構想における「古代」の表象について研究している。歴史の「起源」としての古典古代が、美術において「復活」させられるとき、そこにどのような変形作用が働くのか、その背景にはいかなる政治的素因があったのかがテーマ。
現在ブルゴーニュ大学人文学科近現代史専攻に在籍し、フランスにおける「古代ローマ憧憬」の受容、流通過程について調査中。
論文=「不可視の過去を可視化すること──ピラネージによる古代形象の『考古学』的復元手法について」(UTCP研究論集、2007)、「『古代』が召還されるとき──明治二〇年代の日本におけるギリシア幻想」(『SITE ZERO/ZERO SITE』2006)など。


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