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死体の重さ、あるいはアネット・メサジェの反ベルクソニスム|郷原佳以 2007年12月28日

あらゆるものは重力の法則に従っている。誰も1本の鉛筆を、1個のりんごを中空に浮かせておくことはできない。支えを失うやいなや、すべてのものは落ちてゆく。それが脆いものであれば、またたくまに地面にぶつかって毀れ、あるいは潰れ、もはや使いものにならなくなるだろう。もちろん無機物ばかりではない。私たちの身体もまた同様である。窓から突然放り出されたなら、足下の床が突然抜けたなら、私たちもまた重力のなすがままとなって、何かに衝突するまで落ちてゆくしかない。この点で人間は、身ひとつで軽々と宙を舞う鳥や虫に到底かなわない。とはいえ私たちは、重力に対して、全重量を私たちの掌に預けている一個のりんごと同じ在り方をしているわけではないだろう。羽を羽ばたかせて飛んでゆくというわけにはいかないが、少なくとも重力に逆らって立ち上がり、自力で身を支えて生きているのだから。そしてそこにこそ、つまり、無機物であれば完全に下方へと引っ張られるがままになるところで重力に抵抗し、自己の身体を自力で上方へと持ち上げようとするそのエネルギーに「生」の現われを見て取るとすれば、毎日朝になると起き上がって1日の活動を始める私たちにとって、それは実感として受け容れやすい「生」のイメージであるかもしれない。「生の哲学」を提唱した哲学者、ベルクソンはまさしく、「腕を上げる動作のようなものを考えてみよう」と呼びかけていた。そして、

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アネット・メサジェ

「次にこう想像してみよう。その腕は放っておかれるとまた落下する、しかしその腕のなかには、腕を活気づけたある意欲のようなものが残存していて、それが腕を持ち上げようとしている、と。このように、自己解体しながら創造する動作というイメージを描くなら、より正確な物質の表象が得られることになる。そのとき私たちは、生命活動を見て、そこに、逆転した運動のなかにいくらか残存している直接的な運動を、解体するものをつらぬいて出来上がってゆく事象をとらえることであろう」★1。

ここからわかるのは、しかし、「生」の根源すなわち「エラン・ヴィタル(生の飛躍)」を見つけ出すことが、けっして単純ではないどころかきわめて繊細なイメージ操作を必要とするということである。それによれば、生命活動は、腕を下に引っ張る重力のような物質の運動によってたえず妨害を受けている。しかしその物質の運動は、実のところ、腕が落下する前にその腕を上げようとしていた何かある意欲のような根源的な衝力に対する「逆転した運動」である。したがって、生命活動がたえまない物質への抵抗であるとすれば、それはしかし、物質よりも根源的な生命の力(「直接的な運動」)たる「エラン・ヴィタル」の残存なのである。かくして、個々の生命体はたえず危機に曝されながらもつねに根源的な「生」によって支えられ、物質との「妥協(modus vivendi)」として生きてゆくことになるだろう。

さて、先ごろ東京と京都において、ベルクソンの『創造的進化』刊行100周年を記念し、その「生の哲学」をめぐる大規模なシンポジウム(「生の哲学の今」、2007年10月16─20日)が開かれた。国際的に見てひとつの事件であっただろうと思われるきわめて活気溢れるシンポジウムで、門外漢の筆者も、高水準の発表や引きも切らぬ討論に、すぐれたシンポジウムならではの興奮を覚えずにはいられなかった。上記のような一節に何か騙されたような感触を覚えていた筆者にとって何より刺激的だったのは、「生の哲学」における「死」や「否定」の契機が証されたことであった。たとえば「エラン・ヴィタル」の「ヴィタル」は、もちろん「生命の」という意味だが、フランス語の用法としてより一般的な「生存に必須の」あるいは「死活に関わる」といった意味も、それと無縁ではない、等々。なるほど考えてみれば、「生命に関わる」が「死に関わる」とほとんど同義であるのは明らかだ。「ヴィタル」とは、これがなければ生命が危うくなる、という限界を示すのに用いられる形容詞である。だからいまでは、かつて松浦寿輝が行なったように、ベルクソンの名高い砂糖水の譬喩に対して、「砂糖が溶ける前に『私』が死んでしまえば、もう『私』は『待つ』には及ばない」とドゥルーズに倣って──しかしむしろデリダ的な──「茶々を入れ」つつ、「ベルクソンの作り上げた強力な『実在の形而上学』に欠落しているほとんど唯一のものがあるとすれば、それは『死』なのではないだろうか」★2と問いかける必要はなくなったといえるかもしれない。

にもかかわらず、白状すれば、結局のところやはり欠落しているのではないか、という思いが拭えない。そしてそのことが、この思想を、20世紀後半のある種の思想や芸術から決定的に隔てていはしないだろうか、という思いが。しかしそれは、「死」ではない。「死」への眼差しは確かにそこにある。そうではなく、欠けているのはむしろ、「不死」への眼差しではないだろうか。「不死」、それは、つねにすでに「死んでいる」状態で「生きている」ことである。そこでいつのまにか思い出していたのが、去る7月にパリのポンピドゥー・センターで見た、アネット・メサジェの回顧展「メサジェ[メッセンジャー]たち」だ。

この夏、ポンピドゥー・センターは死体に満ちていた。死体、すなわち生なき物に。しかし、オブジェ(物)とはそもそも「生なき物」であるならば、なぜそれら──メサジェのオブジェ群──は、ただの「物体」ではなく「死体」として現われてきていたのか。それはなぜなら、その物体たちが、あるものはおのれの全重量を一本の細釘に委ねて吊り下がり、あるものは床に身を拡げてその弛緩しきった姿を観者の前に曝け出し、あるいはまた、観者の前で実際に落ちてくるからである。ただし落ちるとはいっても、気がついたら眼下にあったという瞬速でではなく、ワイヤーに吊り下げられたままで、いかにも重量を感じさせる仕方で、だらぁっと垂れ下がってくる。当然ながら、重力に逆らういかなる力もそこには感じられない。それらの物体とは、大量のぬいぐるみ、布、袋、髪の毛のような網、写真、本、鳥や兎などの剥製、あるいはまた、性器や手足などの身体部位を象った巨大な張りぼて──メサジェのライトモチーフは「ピノキオ」だ──である。

ここには死の「切迫性」など皆無である。ここに見出されるのは、一瞬先に待ち構えているかもしれない可能性として私たちの「生」をたえず脅かし続け、そのことによって私たちの「生(ヴィ)」を「死活に関わる=生気ある(ヴィタル)」ものにする「死」、つまり「生」を脅かすことによって「生」を活性化させる「死」ではない。あるいは端的に、ベルクソン的観点からすれば、そこには「死」などない、たんに「物質」の支配があるだけだ、ということになるかもしれない。確かにメサジェのオブジェはすべて「物質」であるだろう。いかなる生成変化も差異化も見出されぬそれらのオブジェに流れているのは「持続」ならぬ悪しき時間でしかないだろう。

しかし、ここで考えてみたいのは、ある種の物体が「死」を喚起し、「ヴィタル」な死の脅威とはまた別種の情動、すなわち「不気味さ」をもたらすということの意味である。たとえば床の上に無造作に投げ出されて襞を拡げたコートが、時と場合によっては何かきわめて恐ろしいものに見えることがありうる。私たちはそこに「死」を垣間見るような気がするのだ。だが正確には、私たちがコートに重ね見ているのは、生命の去った抜け殻としての死体である。そこにあるのは「切迫性」としての「死」ではない。そうではなく「死んでいる」状態、「死んだ後」の状態、ということは「生きた後」の状態である。これはしかし、考えてみれば奇妙なことではないか。なぜなら元来、無機物には生も死もないのだから。とすれば私たちは、ここから翻って考えるべく促されているのではないか。つまり、ある種の物体が不気味な仕方で「死」を喚起するのは、それが逆に、無機物であるにもかかわらず「生きている」かのようである、つまり私たち自身に似ているからではないだろうか。物体が「不気味なもの」として現われてくるのは、それが道具としての機能を停止させ、それ自体として生気を帯びてくるときではないだろうか。無機物は「死んでいる」ことにおいて生物に似始める。そして幽霊のようになる。

実際、大小さまざまなメサジェのオブジェを目にして私たちが覚えるのは、それらが「死んでいる」ことにおいて「生きている」、という奇妙な感覚である。というのもそれらは、私たちを眼差してくるからである。たとえば、塀の向こう側の壁に鳥の死体が大量に貼り付けられている。私たちは塀に空いた穴を恐る恐る覗く。見てはいけないものを見てしまった、という嫌悪感が湧いてくる。しかし、一度見てしまったものはなかなか視界を去ってはくれないだろう。メサジェのオブジェは見る者に執拗に取り憑いてその足を引っ張り、作者名に引っかけた「メッセンジャーたち」とのタイトルどおり、何かを訴えかけてくる。要するに、重いのである。

死体の重さ。メサジェのオブジェ群が感じさせるのはこれである。その重さは私たちの生と無縁ではない。しかし私たちはその重さに抵抗し、あるいはその抵抗自体を生命活動へと取り込んで生きている。対してメサジェのオブジェ群が構成する宇宙は、いわば負のエネルギーに満ちている。それはベルクソンが考えた向日性の「生」とは正反対に、下方へ引きずり下ろそうとする力である。なるほどベルクソンも「死」をたえず視野に入れていただろう。しかしそれが、「生」を活性化させる脅威として、「生」の側から「死」を眺める眼差しであったとすれば、メサジェのオブジェは「死」の側から、「生」を照らし出す。そしてこれが現実なのではないか、と囁くのだ。私たちは大量の死体のうえに、「生きている」のではないか、と。

アネット・メサジェのオブジェ群、来年は日本にやって来る(森美術館、2008年8月2日─10月26日)。




★1──Henri Bergson, L'évolution créatrice, PUF, 1941, «Quadrige», 2006, p. 248. 強調原文。
★2──松浦寿輝「ベルクソニスムと死」(『謎・死・閾』筑摩書房、1997、212─213頁)。



郷原佳以 Kai Gohara
1975年生。フランス文学。日本学術振興会特別研究員。
論文=「美術館病、あるいは展示価値のアウラ」「言語のアポリアから言語の魔術へ——ブランショとシュルレアリスム」など。


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