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モニク・ダヴィド=メナール『ドゥルーズと精神分析』(PUF、2005[未訳])|千葉雅也 2006年09月25日

「悲しみの感情というものは、適切なしかたで捉えかえすなら、もはや悲しみでなく喜びになるのだとスピノザは書いた。喜びこそが真の思考であり、肯定だからである。ところが精神分析は、そのような肯定に異を唱える。言ってみれば精神分析とは、スピノザであれば直面を避けた問いに、むしろ応えようすることなのである──悲しみの感情をどうすればいいのか?」(20頁)。現役の精神分析家であり哲学者でもあるモニク・ダヴィド=メナールの近著『ドゥルーズと精神分析』(Monique David-Ménard, Deleuze et la psychanalyse, Paris, PUF, 2005.)によれば、こうした「悲しみ」のリアリティをめぐり、ドゥルーズはいちどフロイトと出会っていながら、しかし足早に「喜び」の「哲学」へと走り去ってしまう。

Monique

Monique David-Ménard
Deleuze et la psychanalyse

「ドゥルーズと精神分析」の関係といえば、フェリックス・ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』(1972)によるセンセーショナルな精神分析「批判」があまりにも有名だが、この挑発をすこし冷ましてみれば、60年代のドゥルーズがフロイトの仕事とかなり近いところでその思想を練り上げていたこと、これもまた明らかな事実である。すなわち「反復」に内在する「差異」の生産をいかに認めることができるか──そうした『差異と反復』(1968)の問いかけは、フロイトの臨床とダイレクトに共鳴するものだった。なぜなら分析家は、似たようなパターンで沸きかえす症状、欲望の生における「うまくいかないこと(ce qui ne va pas)」のくりかえしから患者を自由にし、異なった生を再開させようとするのだが、このねばり強い努力は、「反復」とその「差異」化のからみあいを決定的に解くことなしに──言い換えるなら、他者の(そして転移しあう私自身の)悲しみの、苦しみのリアリティをそれとして肯定しながら、いわば、このリアリティをそのままに変容させることを目指しているからである。ドゥルーズの言葉を借りるなら、症状をくりかえし「現勢化」している無意識の「潜在的」な構造が、目下の症状とはべつのしかたで「反実現(contre-effectuation)」するような時間、すなわち「出来事」の未来を、過去全体の異化した反復としてもたらすこと。ダヴィド=メナールによれば、ドゥルーズが「生成変化」と呼ぶものは、こうした悲しみの異化にほかならないのだ。

しかしながら、あくまでも悲しみのリアリティを無みしない異化と、決定的に「もはや悲しみでなく喜びになる」ことのあいだで、ドゥルーズの「哲学」はいつも痙攣している。一方で、ひたすら純粋な潜在性において「無限の速度」へと解き放たれた喜びを求めるにしても、それをじかに生きることはできないだろう。かといって、悲しみの現勢性にとどまるための速度もまた、あまりにも遅くてはいけない。こうした「程」の厄介さは、ダヴィド=メナールによれば、ひとつの大きな疑問へと要約される──「ドゥルーズの思想において、出来事の哲学を無限の哲学から切り離すことはできるだろうか」(181頁)。あるいはドゥルーズにおいて「生成変化の有限性」(同頁)を考えることができるだろうか。

つまるところダヴィド=メナールは、臨床家の立場から──そしてカント研究者として──あくまでもドゥルーズを、いっさいの無限論から切り離さなければならないと考えている(それゆえ、無限集合の存在論と出来事の哲学を貼りあわせたままアラン・バディウがドゥルーズに仕掛けた論戦は、彼女に言わせれば、偽の諍いでしかない)。とはいえ、こうした読みの決断を急ぐまでもなく本書がよく示唆しているのは、ドゥルーズの「哲学」というものが、プレモダンな無限性の神学、そして有限性のモダニズムとを──さらにヒューム的な「連合主義」を媒介することで──溶きまぜたアマルガムであるという事情ではないだろうか。ドゥルーズの「哲学」はおそらく、二つの「速度」を併せもちながら、そのあいまに、みずからの領土を隈取っているのである。

本書の目立った特徴としては、『ザッハー=マゾッホ紹介』(1967)におけるドゥルーズと精神分析の対話にあらためて照明を当てたことが挙げられる。けれどもドゥルーズがそこで、二つの速度をともに扱っていたという事実については、詳しい言及がなされていない。『ザッハー=マゾッホ紹介』によれば、その実践において、マゾヒズムは「減速」する暴力へと向かい(契約によって時間を、縄によって身体を縛り、個体化を賦活すること)、サディズムは「加速」する暴力へと向かうとされる(身体を、さらには世界を破壊し、純粋な非人称性へと開かれすぎること)。ダヴィド=メナールによれば、もっぱらこの前者、マゾヒズムこそが、すでに60年代において、『アンチ・オイディプス』以後に明示される内在的欲望の概念──エクスタシーを目的とせず、ただプロセスの継続だけを自己目的とする欲望──を予告しているという。しかしながら『ザッハー=マゾッホ紹介』は、必ずしもはっきりと、サディズムに対しマゾヒズムを優位に置いたわけではないように思われる。むしろこれら双方、つまり加速と減速を、たんなる対立へ還元することなく、ある種の平行論において肯定することこそが、その「哲学」に固有のバランスだったのではないか。ドゥルーズは次のように書いている──「『毛皮を着たヴィーナス』の場合は、すべてはヘーゲルを読みかけて中断していた瞬間にわき起こった夢から始まっている。だが、わけても重要なのはプラトンである。サドにスピノザ思想が、推論的理性があるとするなら、マゾッホにはプラトン主義が、弁証法的想像力があるのだ」(『マゾッホとサド』蓮實重彦訳、晶文社、1994、31頁)。この配分を真面目に受けとるなら、無限の速度へと加速するスピノザは、サディズムに与する。しかし減速するマゾヒズムはプラトンに、そして驚くべきことに「中断された」ヘーゲルに与する……。

ダヴィド=メナールが切り出しを試みた有限性のドゥルーズ像を──臨床というマジック・ワードによって硬化させることなく──無限性のわずか手前において開きかつ閉じられるそれ自体倒錯的な姿へといますこし彫り込むには、これら二つの倒錯を分かちながら出会わせる、いわば速度のエコノミーのもとにねばり強くとどまる必要があるだろう。ダヴィド=メナールよりもさらに遅く、ドゥルーズにおける「哲学という欲望」そのものを、批評と臨床の対象とすること。ドゥルーズ「と」精神分析、この接続詞が求めるのはおそらく、悲しみが喜びに「なる」そのとき、喜びをなお悲しみのそばに立ち会わせるために、速すぎず、しかし遅すぎもしない、超越論的なリズムを測りつづけることなのである。


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