SITE ZERO Review | サイトゼロ レヴュー

『SITE ZERO/ZERO SITE』No.2「情報生態論──いきるためのメディア」刊行|
企画主旨:ドミニク・チェン
2008年10月15日

2008年現在、日本語でテキストを書くということは何を意味するのか。書くことがその書くものに成っていく過程であるのであれば、日本語で書くということは少なくとも日本語で表象されうる範囲内の事象へと書き手が生成変化していくことを意味する。それは、英語が現代世界の主流言語であるという現状確認と、ある種の締念に似た認識に対して、意図するとせざるを問わず、批評的な行為として位置づけることができる。それは、集約の後には拡散がある、という巨視的な観念論を振りかざすことなく、現在私たちが直面する諸々の状況と照合しても有効である。

「近代」「ポスト・モダン」、その後にありうる状況をここでは仮に「プロ・モダン」と呼んでみる。「pro-」というラテン語の接頭辞は、「目の前にある」「先行して」「─として」「─のために」といった義を持っている。モダニズムにおいて自己定義がすべてに先行し、自家撞着を引き起こした結果、ポスト・モダンの乱視的状況が続いたことを想い、そのうえで「再帰的」に現代の現代性を把握しようとするのであれば、ある形式への固定化でもなく、ましてや定義からの逃走でもない方法を探らねばならない。
モダニズムの標榜した自己言及性は、普遍的な自己言及性が存在するという大きな誤りに基づいている点において、偽の自己言及性でしかなかった。ポスト・モダニズムの決定不可能性もまた、存在の揺らぎと不確定性を足枷にした結果、依然として愚行や惨劇が決定され続ける現実と乖離してしまった。こうした観点から見ると、双方とも遠視的な自己言及性と近視的な不確定性という、一方向への偏重によって共通している。ここからあぶり出される現在の私たちの問題は、視力の矯正であり、それは生命論の正しい把握を要請すると考える。
「目の前にある現在性」、これはトートロジックに見える命題だ。しかし、それは生命が孕む、一見トートロジックに見える構造と同様の再帰性を示唆している。例えば、細胞膜の形成は次のように表記できる。「膜は細胞の境界を既定する/細胞の構成素は膜を構成する」、と。ここでは膜の形成と細胞内の力学系が、構造的にカップリングして、ひとつの作動システムとして、あくまでその流れによって/流れのなかに(par/dans)、構成されるという事実が指示されている。目の前にある現在性を捉えること、それは過去から直線的に今を捉えようとすることではなく、過去と現在の累積から演算される数歩先の可能世界から現在に立ち戻っていく志向性を意味する。換言すれば、それはあらゆる還元主義に抗い、つねに現在を近い未来から先取りしようとする動きである。現在の脱領土化、そして再領土化。

無論、プロ・モダンという概念が議論されうるとして、それは依然、巨視的な、つまり曖昧で、現実から乖離しがちな抽象度を持つことに変わりはない。つまり、それはモダニズムとポスト・モダニズムに対する皮肉にしかなりえないし、仮に成立したとしても逆に自らの上意下達(トップ・ダウン)性を否定するがゆえに自壊することを免れえない。
現代の現在性は複数であり、複雑である。こうしたなか、包含的な認識装置を設定したがる欲望はすでに前時代的ですらある。私たちはここで、フランシスコ・J・ヴァレラのオートポイエーシス理論が1匹の蛙の細胞の観察から立ち上がったことを想起しながら、ミクロな現在性の在り方に注目しなければならない。
プロクロニズムとは、そうした生命個体に特有の時間性を担保しながら、あらゆる生命種を接続する形態のパターン、という意味を指す用語である。胎生学的には、それは成長のプロセスを持つ作動系が、そのプロセスの連続的な累積を自らの形態に刻印していく様を意味する。歴史の「現前」。

ジル・ドゥルーズが「生成変化の歴史」(l'histoire des devenirs)と呼んだもの、それは歌である。歌は感念(affect)の領域にある。観念(concept)は持続する思考であり、覚念(percept)は持続する知覚であり、感念(affect)は持続する感情である。持続とは、知覚の刹那を超えて、それを受け取る人間のなかに生き延びる(survivre)情報である。古来より、観念は文字として記録され、覚念は絵画や彫刻、建築といった形に刻み込まれ、感念は楽譜に記されてきた。この3つの様式のなかで、音楽としての感念は、時間軸上で何度も反復される媒体とともにあった。
歌は時空間的なマーカーとして機能する。ある領域の境界を脱するとき、そして再び戻ってくるとき、また領域の境界を確かめるとき、私たちは歌を歌う。純粋な歌は、歌い手にとってセルフ・フィードバックを起こし、かつ、周囲の存在者にも反応を促す。それはけっして、言語以上に特殊な行為ではない。日常的に交わす言語的な発話はむしろ、感念を抜き取った歌であるという意味で、自然的ではない意味伝達の形式である。純粋な確定記述なるものを志向することによって、私たちはむしろ多義性を喪失した、より不完全なコミュニケーションに拘泥しているといえる。

上記の分類に従えば、私たちが自らの観念(コンセプト)と覚念(パーセプト)を記録する方法論や技術は20世紀の情報産業革命のあいだに飛躍的に発展し、膨大な量の情報が蓄積されてきた。哲学的な議論は幾度となく反復され、無数の思想と科学のデータベースがミクロな差異を戦わせるべく、ネット上で百花繚乱の様相を呈している。覚念の記録と管理は社会の工学化とともに、ライフログの領域で身体のデジタル化を推進し続けている。しかし、感念(アフェクト)の共有を支える方法論は依然、それ自体が自律系として屹立するほどまでに体系化されるに至っていない。感念は、観念や覚念の領域に収斂しようとする還元主義の餌食にあってきたと言っても過言ではない。これら3つの人間領域が、互いに構造的にカップリングを果たさない限り、私たちは乱視から逃れることはないだろう。

私たちが自らの生成変化の歴史を捉えるための歌。それは現在、人間を生き延びる感情を生み出し、維持し、共有するための情報技術として志向されうる。この歌はソフトウェアであり、プラットフォームであり、メディアである。これは観念と覚念の狭間で探し出されるものではなく、作り出されるものだ。

私たちが上意下達の管理や資本市場の慣性といったマクロな人為に抗いながらいきるための歌は、アルゴリズムによって奏でられる。それは諸個人が自らの構成素のミクロな遷移に気づき、行動にフィードバックを起こし、身体と思考と感覚とがデータと乖離することなくひとつの作動システムを構成することを助ける譜面や楽器としてのアルゴリズムである。この情報系としての感念なくして、諸個人の政治は開始しないことも想起しよう。

本特集では、日本において、観念と覚念に溺れることなく、かつ、それらと正面切って対峙しながら、けっして言語を目的化せず、人間と計算機の摩擦面から溢れ出る感念を見据えようとし続ける人々に寄稿を依頼した。ここに集まった思考はすべて、生じては弾けてしまうような刹那的な感覚を、不可分な形に固定化しようとすることなく、さらに細かく分割可能な動きのなかで捉えようとする志向性を湛えている。
私は、これらの動的な思考のプロセスを、活字という旧い媒体上に、ひとりの園丁として生け捕ろうとして、流動的な構成を試みた。この特集はだから、より高い複雑性を志向する群島から成る、ひとつの庭(しま)としてアクセスされることを企図している。この庭(しま)には実験があり、仮説があり、挑戦があり、迷いがあり、対話があり、そして詩がある。そして寄稿者全員が英語圏ですでに活躍しているにも関わらず、このつながりが日本語という西洋的近代の呪縛を解きほぐす言語によって紡がれたことの意義は、今後とももっと真剣に考察されるべきだ。特定の言語はそれ自体に固有の認識論を生み出すからだ。

願わくば、あなたにこのささやかながらも豊穣な庭(しま)に流れる旋律が届きますように。その旋律があなたの感覚を生き延び、あなた自身の歌曲に取り込まれますように。そして、あなたとあなたのデータが、ひとつの歌として共に生きられますように。


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