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『述』「特集=国家論」(近畿大学国際人文科学研究所紀要vol.3、明石書店、2007)|大橋完太郎 2007年05月21日

本書は、近畿大学国際人文科学研究所が発行してきた紀要論文集『国際人文科学研究』が前身となっている。今号、すなわち第3号の刊行に際してリニューアルされ、それに伴い市販に供された。書籍としての体裁も変わったようで、改められた誌名「述」を前面に出し、特集をフィーチャーしたかたちで発行されている。

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『述』「特集=国家論」

特集は「国家論」と題されている。執筆陣は、岡崎乾二郎に始まり、絓秀実、渡部直己、といったメンバーに加えて、保坂修司や大越愛子といった近畿大学教員、池田雄一、青木純一、中島一夫、石川義正などといった1960年代生まれの、いわば若手から中堅にさしかかろうとしている世代の書き手たちから構成されている。翻訳として掲載されているものとしては、マックス・ウェーバーの未訳の国家論「政治的共同体」が目を惹く。イスラム世界のファトワー(保坂)、無償労働(大越)、60年代知識人(絓)、あるいは文芸批評(中島)からゴダール映画(石川)に至るまで、所収の各論考が扱う多様な題材は、媒体が雑誌であるがゆえの拡がりを見せている。それらすべてがあるひとつの「国家」観に向かって整然と収斂していく、ということは当然ありえないが、少なくとも冒頭に掲げられた岡崎乾二郎の二つの論考は、本号の基調をなしているものとして考られるだろう。実際、マネによって描かれた『マクシミリアンの処刑』をめぐる短い考察(「国家というタブロー──マネ『マクシミリアンの処刑』をめぐって」)と、古代ギリシアの対話体を模して構成された岡崎とプラトンとの架空の対話篇(「プラトン『国家』を読む」)によって、岡崎はあたかも、近代の国民国家とともに成立した表象の政治学へと厳しい目配せを行なった後、もう一度、芸術と国家とを、その基礎から立ち上げなおそうとしているように見える。岡崎の軌跡を簡単になぞりながら、岡崎がプラトンの国家論へと至り、そこに固有の芸術論を読み込むに至った経緯に、 当レヴューでは注目してみたく思う。

岡崎乾二郎が国家論へと関心を寄せるのは、今回が特別な事例ではない。例えば、『絵画の準備を!』(朝日出版社、2005。以下引用箇所はRFPとして示す)と題された松浦寿夫との共著は、再発行に際して新たに2004年に行なわれた「メディウムと抵抗」という題の対談が付け加えられているが、その対談の冒頭で、岡崎は、具体的な芸術実践としてのモダニズムを、「歴史的文脈もしくは政治的、世俗的な状況の中に再度位置づけ直す」ことを要請している。憲法の成立を暗黙に規定し基礎付けている「基本的人権」を援用しつつ、そこにおいて自然法レヴェルでの人間の措定を可能にする物質的な不可侵性というものを読み込みながら、岡崎は、そのような自然の位相を、制度的な抑圧に対する抵抗の権利として読み解こうとしていた。つまり、「立憲主義」は「抵抗という見えざる力によって支えられている」(RFP, p.354)と、逆接的に結論付けられることになる。岡崎はこの論理の上に、モダニズム芸術に特徴的な「メディウム・スペシフィック」という論理を重ね合わせていく。すなわち、自然レヴェルの物質性が人権を通して憲法を逆向きに統制するという構造、いわば自然が法措定的暴力へと抵抗していく構造がまず存在している。これと同様に、芸術ジャンル固有のメディウムの特性がジャンルを規定しているなら、メディウムの特性こそが諸芸術の形式に逆らう抵抗として存在する可能性があり、この可能性こそが芸術に内在する論理にほかならない、と指摘されている。岡崎はさらに、ベンヤミンの考えた神的暴力をもっとも過激な抵抗権へと重ね合わせる。例えばダダイズムとは、飽和したモダニズムにおいてその法維持的暴力を無化するような神的暴力となり、芸術を芸術たらしめてきた法維持的暴力、すなわち「芸術の歴史」という暴力を破壊する試みとして読解される。いわば岡崎にとって、神的暴力とは、徹底的に歴史批判的なアナーキズムとして捉えられ、その理解に従うならば、「表象=代議制」に対する投票棄権、というものも、ひとつの抵抗であり神的暴力として読み解かれることになる。こうした国家と芸術との接点において、神話的暴力(これは岡崎によってほとんど法維持的暴力と同義で用いられているのだが)に対抗し、それを覆すべく召喚させられた神的暴力が、投票の棄権やタブローの破壊・解体といった、いわば「否定的な」形象をのみ帯びざるをえないということは、理論的な問題であったように思える。抵抗とは常に=既に「~への抵抗」でしかないのだろうか。この難点は、岡崎自身も認めている。「神的暴力の問題、つまりモダン→ダダの問題系列でいえば、たとえ既存の時間的orderを切断して、優先順位や時間的順序をひっくり返しても、不可逆性をもちこんだとしても、それだけでは新たな時間的なorderの形成にはならないという問題がある」(RFP, p.360)。こうした問題系のなかで捉えてみるならば、『述』において選択されたプラトンとの架空の対話とは、いわば岡崎による起源再創出の試みであって、そこにおいて、今一度、起源としての芸術が、シリアスなフェイクとして語られることになる。「もし死者が復活することが可能であれば、歴史は成立しない」(RFP, p.382)と岡崎は述べている。逆に言うならば、死者を復活させることは、成立してしまった歴史を脱臼させることにほかならない。既存の歴史は、その根底から無効化される。プラトン『国家』をあえて読み直すという一見愚直な行為は、岡崎自身のこうした関心のさなかで捉えられるべき試みなのだろう。

「プラトン『国家』を読む」(『述』pp.8-25。以下引用箇所はPRとして示す)と題された小品のなかで、最初に驚きを与えるのは、岡崎があたかも「国家」に信頼を寄せているかのように振舞っていることだ。もちろんそれは「お人よし」(PR, p.8)な視点に過ぎないかもしれないものの、それでもそこにおいて国家は、過剰に無化されることもなく、「存在理由」をもったものとして「期待」されている。ここで、芸術を基点において考える際に国家を積極的に擁護する点として、継続する資本主義的運動のなかで、芸術、とりわけ「芸術作品」というものが、常に価値の体系の差延において成立しているということが示されている。資本の蓄積が利潤を獲得するためには、まず、生産過程における時間の蓄積を捨象し、単一な価値として市場に上げる必要がある(過去の抽象化)。また同時に、そうした市場システムを維持するためには、そのシステムの内部に、いわば国家といった超システム(あるいはサブシステム)によって、未来に渡ってそのシステムが存続していく可能性が否応なく書き込まれている必要がある(未来への投企)。つまり資本主義とは、ある価値の過去を捨象し、その価値の展開を未来へと繰り延べることによって成立するような、国家によって支えられた持続的発展モデル(あるいは循環モデル)の一形態にほかならない。このように定義された資本主義は、岡崎にとって、芸術の単純な意味での換金不可能性と軌を一にしている。芸術作品とは、制作の時間(=起源の時間)が常に括弧にくくられたままで価値づけを被り、なおかつ、その交換価値さえも、常に変動を被るものであって、ひとつの「現時点」によっては定位されえない。すなわち芸術は、「時間の差異によって作り出される共約不可能性」(PR, p。9)を内包、いや、体現さえしている。この点において、芸術の起源を問うことは、必然的に国家の起源を問うことと一致する。なんとなれば、国家というものも、実在的起源を措定することができないまま(常にあらゆる国家の起源は、神話的なものでしかない)、その存在が保証されるのは今後もこの国家が存在するからに違いない、という理由のみによって、無限に縮約され、繰り延べられつつ今存在を続けているからだ。そうして、「国家の制作」と「芸術作品の制作」を同じモデルで語った本質的な試みとして、岡崎はプラトンの「国家」を取り上げる。すなわち、岡崎は、「芸術」への信頼と同様に、「国家」への信頼を回復しようと試みる。もちろんその試みは、これを読んだ多くの人が気づくことになるだろうけれど、国家と芸術をともに、いわば脱構築することにほかならない。

プラトンとの交合において、岡崎は、「正義」「技術」「自然」という概念を切り出してくる。端的に言うなら、あたかも自然が技術の正しさを規定しているかのように、技術には固有の正しさが備わっている。大工がノコギリで木を切るときには、実際のところ、「木の都合あるいはノコギリの都合に従っている」(PR, p.11)のであって、いわば技術においては唯物論的な必然が認められる。すなわち、技術は、個人的な意志や欲望に左右されることなく、正しくあることができる。技術の正しさはそれゆえ、基底的な主体の位相を揺るがせる。技術とは、確定的な機能・属性であって、そこにおいて厳密な繰り返し(すなわち「正しさ」の規範化)が成功するならば、主体という名で名指される利益関心の中心はその機能を失調することになる。とはいえ、この技術の正義の自然を、人間は十全に享受しているわけではない。岡崎はこの非十全性を、人間の可能性の条件として再び捉え返す。プラトン=ソクラテスが提起した「無知の知」とは、人間が技術において生来的に未熟であるという発見であって、人間にとりついているこの「無知の知」という亡霊こそが、自然状態に固有の力の原理(それを人間に適用するならば、「万人が万人に対する狼 homo homini lupus」ということになるだろう)による支配から人間を脱却させることを可能にする。いわば「無知の知」によって、人間に対して、各々が個別の唯物論的秩序でもって成立している正しい技術の間を、「無関心に=没・利害的に」越境する可能性が与えられる。「無知の知」という「亡霊」、この表現は、岡崎にとって単なる比喩ではない。時間の脱臼を内にはらんだ人間とは、現世においてすでに死んだ人間であって、「現世、現在という時間の中での価値の測定を必要としない人間」(PR, p.12)の別名でもある。この定義は先に述べた芸術と資本主義の論理と同一のものであって、そこにおいて、芸術=国家=人間の三幅対が不可分なものとして思考可能になる。

こうした展開において岡崎が目指しているものを総括すれば、技術のコミュニケーションとしての「国家」「芸術」「人間」だと、ひとまず言うことができるだろう。これらの概念は、異なる技術の共約不可能性をモダニズム的(あるいはジャンル論的)条件として捉えながら、そのディスコミュニケーションが成立する条件としての唯物論的自然性を担保しつつ、同時に「不可能な自然」としての人間、いわば自然の鬼子として存在している人間が、異質なものの間の共通理解を構成していくための異なった手続きを読み込んでいくための補助線だと言えるかもしれない。さらに言えば、ここにおいては、縮約し繰り延べられる時間のさまざまな層において「同期・非同期」を見出すことが、岡崎にとっても、そうして岡崎が読み込んだプラトンにとっても、ひとつの賭け金となっている(「同期・非同期」については、PR, p.21、ほかにもRFP, pp.357-361を参照)。技術を相互に媒介するひとつの手段を、岡崎は、「理(ロゴス)」と呼ぶ。プラトンの対話的理性が構成する関係は、止揚へと導く弁証法的論理に統御されているわけではなく、ある発話と別の発話との間の比例関係に過ぎない。言語的ロゴスの秩序において「比喩」とも呼ばれるこの比例関係は、ある技術を別の技術へと開放していく「躍動のための拠り所」(PR, p.22)となる。内包された比例関係を展開する行為こそが、認識にほかならず、これが岡崎にとって「ミメーシスというものの本質」(PR, p.23)と名付けられ、物質的なものに対する近代的なフェティシズムと対置される。また、岡崎によるイデアの定義に従うならば、イデアとは体得された技術を反復可能なものにする行為的同一性にほかならず、それが認識の生成を基礎付け、それに基づく行為を新たに可能にし、その技術を他者にコミュニケートする可能性を開いていく。それゆえ、知ることは行為することと、極めて直接的に結びつく。見かけの類似性に基づいたフェティシズム的模倣・複製は、事物への欲望に基づいた過剰な快楽、あるいは戦争の由来でしかない。「複製技術時代」ではなく、「複数技術時代」こそが、岡崎の議論を経由した者にとって問われるべき問題となる。

複数的なものが同期する場としての国家論、あるいは芸術論というものを、私たちの時代は、まだ手に入れていないように思える。いや、正確に言うならば、複数の価値の体系がひしめき合っているときに確保すべき視点に関して、いかなる明確な理論的後ろ盾を手にすることもできていない、という現状があるように感じられる。それゆえ、相対論へと自足することに甘んじることを避けたいと願うものでさえ、否応なく、ある種の権威や力、あるいは端的な事実性・出来事性、といったものを援用せざるをえない(それは「歴史」「伝統」と言い換えられる場合もあるし、「並外れた弱さ・希少性」といった場合もある。いずれにしても同じことだ)。こうした困難な状況において、岡崎は、ただ複数のものに共通するロゴスにのみ信をおいているように見える。そうして、おそらく私たちにとって貴重だと思われる指摘は、まさに岡崎の言うこのロゴスが、直接的な外部、すなわち大文字の他者との不可能な出会いなどによってではなく、隣接しその境界さえ不分明なもの同士が触れ合う内在平面から、ごく整然と導出される、という点にある。(「……様式というものは決して、その場に合わせた、見かけの整合性だけ適当にあしらえ選択したようなものではない、そういう選択ができる安全な外部の立場などはない、もっと自分たちがどっぷりつかっているドロドロしたものにこそ形式があることを見い出さなければいけない……」(岡崎乾二郎「『隠喩としての建築』と「形式化の諸問題」をめぐって」[『国文学──解釈と教材の研究』49(1)、学灯社、2004、26頁])。

繰り返しになるが、外部がないというこうした状況のなかでは、「人間」の可能性は、内在的なコミュニケーション回路を開くことによってのみ成立する。コミュニケーションの可能性の条件は、「無知の知」と結びついた人間の力、すなわち愛や狂気といった状態の内に存している。愛や狂気において、もはや人間は人間ではなくなるし、あるいは、人間でないものでさえ、人間にとっての対話可能な存在として生起しうる。言いかえれば、人間でないものを人間的なものとしてみなし、同時に自らを非人間の位相にすることを通じて没利害的な交渉の権利を構成することに、複数技術間を横断する人間の可能性は賭けられている。結局のところ、岡崎にとっての国家とは、こうした交通を可能にする装置にほかならない。人間は、諸技術の自立分散型システムとして組み立てられた国家、いわばロボット的リヴァイアサンのなかを、愛や狂気を帯びた非人間へと生成しつつ流動的に通過していく。岡崎のこうしたヴィジョンの前では、現行の国家制度など、おそらくは単なる擬制に過ぎないのだろう。いかなるイロニーも伴わない、誠実さの果てへと至る行程がそこでは試行されねばならないし、それは、まず第一に、各人がある技術を極める、という成果を冷酷にも要求する。岡崎が近年発表した絵画、あるいはインスタレーションを想起してみよう。それらは、いや、それらの「非人間的人間たち(=人間的非人間たち)」は、それ自体が対をなしつつ、同時に岡崎の批評的言説とも対をなしながら、複数の層をなす現実の肌理をあらわにしている。その作品が成立する一つのプランが、「国家というタブロー」にほかならない。あらゆるものが対をなす双数(duel)の場とは、いわば決闘(duel)の場でもある。そこでは、「あらゆるタブローを貫け!」という命法が、常にわたしたちに投げかけられているようでもある。


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