2006年7月31日、メディア・デザイン研究所より人文・社会科学雑誌『SITE ZERO/ZERO SITE』0号を刊行いたしました。
『SITE ZERO/ZERO SITE』は、コミュニケーション・チャンネルの多様化が進むなかで、雑誌メディアを興すことの現在的な意味を内容および流通の2側面からとらえて、批評と理論の場の顕在化のためになにができるかを試行をつづける媒体としてありたいと思います。
そのため「website SITE ZERO/ZERO SITE」は、雑誌と強く連携しながら、独自のメディアとして展開していきます。

批評はつねに零年にある。
グランド・セオリーの終焉、大学制度における人文・社会科学の衰退、グローバル資本主義と国際テロリズムに翻弄される知識人たち、その帰結としての政治イデオロギーへの退行的な硬直化、あるいはインターネット内での言論の自己充足など、知、とりわけ人文知の惨状は数え上げればきりもない。
しかしこうした「危機」こそはつねに、「批評」の場所だったのではないか。だからそれを反復される「零年」と呼ぼう。保証などない信用を賭金にして、この批評の場所へと打って出ること。そのためには、経験則など信じない「理論」の前衛として、戦端を切り開くことが必要だ。
人文知の理論が批評の現場、すなわち社会現象や文化創造の場へと介入しなければならない。気息奄々としたアカデミズムの制度内に逼塞するのではなく、批評の荒野に乗り出すこと。それは同時に、人文知からこそ、社会と文化に関する批判的な理論を鍛え上げてゆくことである。
この0号では、人文知の現在を探るため、国内外の批評家、思想家たちに対するアンケートやインタヴューを行なった。それらは多声的なかたちで批評と理論の現状をまざまざと浮き彫りにするだろう。
さらに、批評そのものの生理を問うため、若い編集者たちみずからが、理論の肉体(=資料体)と格闘している。古典的なテクストを翻訳紹介するのも同じ意図による。それは伝統に根ざすことの意志表明でもある。言語に対する厳密さの要請は、思考の仮借なさに通じる。そして本誌は、難解であることをあえて避けず、対象に対する苛酷な評価をためらわない。
前衛は集団をなす。しかし、それを同人などとは呼ぶまい。この場はつねに「多数」を志向し愛し、差異に向かって開かれているのだから。読者はつねに潜在的な執筆者である。そして本誌はまた、創作に対しても場を提供する用意がある。
こうした媒体は、ベンヤミンの「新しい天使」に似て、エフェメラルであることを宿命づけられているのかもしれない。しかし、「もの」と化した雑誌は古びてゆくにつれ、美しい、あるいは無残な廃墟となって、批評の荒野に何らかの痕跡を残さずにはおかないだろう。インターネット上のサイトと密接な連携をとりながらも、ネット批評にはない物質性を備えた、作品としての書物を読者に送り届けたいと願う。
零年に唯一満ちているもの──それは寄る辺なさと背中合わせの自由であり、期待のときめきとともに不安なおののきをともなった、嵐の先触れめいた不穏な予感である。
そんなあらたな思想の胎動が、零年という時間のアクチュアリティを伝える。