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2006年10月13日

『SITE ZERO/ZERO SITE』の拙論を読んでいただいたある編集者の方からのメールに、ジョルジュ・デュメジルをめぐって、「この国では、不思議なことに、大事な思想家であればあるほど、ローカルな場所でしか読まれません」という指摘があった。まったくその通りだろう。それはそれとして、1940年に刊行されたデュメジルの重要な著書『ミトラ=ヴァルナ』(中村忠男訳、ちくま学芸文庫)の第二版(1947年)序文は、簡潔ながら奥行きのある学問論としても読める。

全体の計画と最終的な成果の定まっていない仕事を断片的に出版するというみずからの方針を擁護して、デュメジルは、「われわれはいまや大きな計画にあまりふさわしくない時代に生きている」と言う。崩壊する都市や図書館、強制収容所の人波のなかや焼却炉の灰のなかに散り散りになる学者たち——「あるいはあの日本人たちのように危険な微粒子へと消滅する」。だから、どんな些細なことも、手遅れにならないように、「人類の知という共有の財布」にしまい込まなければならない。
社会学的な研究にありがちな、前提となる規則や先験的な定義を増やした挙げ句の華々しい計画がもたらす、わかりやすくて自尊心をくすぐるが、実りのない空論への批判も、おおいに心当たりのあるところだ。「方法とは人が駆け抜けてきた後にできる道である」(マルセル・グラネ)。新たに誕生しようとする学問が帰着する「良識」、それはすなわち、1.与えられた素材はすべて使い、恣意的な切り取りを施さないこと、2.資料が示すことを、それがかいま見せる幻想も含め、じっくり見据えること、3.伝統的な判断を信用しないと同時に、何よりも奇抜な意見や流行の新説を信用しないこと、4.時期尚早な専門用語に囚われるのを避けること、5.大胆さと慎重さの両方を用いながら、手続きの正当性と全体の調和を検証してゆくこと——この「五原則」である。
失敗や試行錯誤は避けがたい。けれど、朧気に見えた新しいタイプの問題に「体ごとぶつかろう」とせず、最初からあれこれの文献学をマスターしようとしていたならば、それなりの専門家に落ち着いてしまうのが関の山だっただろう、とデュメジルは回想する。「しかし、冒険はあえて冒すに値すると思われた。」そのためにこそ、各専門領域が合流するかもしれない「あわい」にまなざしを据え続けることが必要だった。——「冒険者」としてのデュメジルがみずからを「ルペルクス」に譬えるのはもっともなことだ(その批判者だった「若く輝かしいフラメン」とは、のちの友人バンヴェニストである)。彼もまた、狼たちの眷属にほかならない。
そして、冒険者の良識は、時に明晰すぎるがゆえに錯乱した狂気に見えかねない(例えばフーコー)。
1947年の時点ですでに数多くの亡霊に満ち溢れてしまっていた、1938/39年という、デュメジルにとって劃期的な年——その後の十年にも満たない歳月のなか、戦場で、あるいは、強制収容所で失われていった聴講生たちの記憶。
この序文はこう結ばれている。
「そして、そのほかのさまざまな苦難に狙われていた若者たちの顔、顔・・・・・・。」