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2007年02月24日

新刊の鈴木一誌『重力のデザイン:本から写真へ』(青土社、2007年)[ISBN 978-4-7917-6320-7]を読む。

森山大道論に目を通すために買ったのだが、読みやすいこともあり、半日で読了。
書物のデザインをめぐる考察が大変面白い。日本語の横書きについて、右横書きは一行一行の縦書きと見立てることで対応が計られたのに対し、左横書きは「横転縦書き」の各文字を、横転の逆方向に回転させ、正立へと戻したのではないか、と推理している。つまり、文字体系としては横転を受容しない代わりに、90度の回転を「一文字」というユニットの内部でおこなっているのである。左横書きを読み書きする過程には、この変換操作が組み込まれている。
その他、マンガの吹き出しや映画の字幕に句読点がない理由や欧文におけるイタリック体の効果や使い分け、日本語のヨコ組本文組版はプロポーショナルに組まれるべきであるといった仮説など、随所に卓見が散りばめられている。とくにアクチュアルなのは、リニューアルされた講談社現代新書の装丁からは「無料」の印象を受けるという感想から出発して、「本が売れない」という事態は、「無料」のムードが漂う装丁が書店を埋めている状況と関わりがあるかもしれないと示唆され、ブック・デザインのポイントを有料と無料の仕切りをいかに管理するかに見出している点だろうか。
自宅書庫の水没事件に発して、書物と水の関係を考察したくだりでは、「書物は微細な気流に包まれている」という、思いがけなくも美しい命題が語られている。ページは湿度や温度の変化のなかで呼吸しているのだ。本書の魅力は書物が生命体のように、ヒトを含む環境と相互作用するさまを緻密に描き出しているところにある。逆に言えば、それは、人間が書物のどのような細部からどんなアフォーダンスを引き出しているか、という生態心理学的な問題を扱っている、ということでもある(著者は佐々木正人氏の『レイアウトの法則』のデザイナーでもあり、本書でも佐々木氏の論考が参照されている)。
「重力」という主題が、書物から写真にいたる本書の全体を貫く、そうした生態学的なアプローチと関わっていることは言うまでもない。荒木や森山の写真を論じた部分もそれは一貫しており、一定の説得力をもっている。とりわけブリューゲルの《雪の狩人》との類似から説き起こされる森山大道論は力作である。
ただし、翻ってみれば、重力が地球上のすべての生物にとって生存の基本的拘束条件である以上は、それは容易にすべてを論じることができる、単なる符帳にもなりかねまい。個々の分析の鋭さは認めながらも、概念のこうした汎用性に感じた疑問が最後まで拭えなかった。著者の目論見から外れることを承知で書けば、より精緻に、そして荒木や森山といった写真家という主体と関連づけることなく「写真の生態学」を語るための概念装置が必要だろう。
著者自身のデザインによる書物の佇まいは、本文の紙質やレイアウトに始まり、本体およびカヴァーの装丁にいたるまで隙がなく、しかし同時に、まさに「微細な気流」を感じさせる温もりもある。

ついでながら、必要があって昨日部分的に再読した後藤武・佐々木正人・深澤 直人『デザインの生態学:新しいデザインの教科書』(東京書籍、2004年)は、文字通り学生向けにはふさわしい教科書的な情報が詰まっていて、そこは「有料」の印象を強めているものの、通読するには視認性が悪いレイアウトだった。
なおそこには、後藤氏が理論的な立場からの「鳥」の役割、佐々木氏や深沢氏は現場の「虫」の役割といった分担の構図が当初はあったのだが、のちに後藤氏も建築家として「虫」的なことがわかった、といった裏話が書かれていた。揚げ足取りかもしれないが、理論が単に鳥瞰的で虫的な細部を見ないというのは、それこそ、「鳥」の生態学を無視した見方だろう。鳥だからこそ見える大地の肌理もあるはずだ。

2007年02月23日

モレッリは画家が意識しない細部表現を通じた作品の鑑定技術を開発した人物として知られている。彼が学生時代に偽名で著わした二つの著作を編纂した書物を入手する。

Giovanni Morelli: "Balvi magnus" und "Das Miasma diabolicum". Giovanni Morellis erste pseudonyme Veröffentlichungen: "Balvi magnus" und "Das Miasma diabolicum". Herausgegeben und mit einer Einleitung versehen von Jaynie Anderson. Würzburg: Königshausen & Neumann, 1991. [ISBN 3-88479-507-4]

タイトルを試みに訳せば、『バルヴィ大王』と『悪魔の瘴気』となろうか。著者名のない『バルヴィ大王』は1836年にミュンヘンで25部が私家本として刷られ、トラウゴット・ゴットヒルフ・シュネック(Traugott Gotthilf Schneck)の遺稿をニコラウス・シェファー(Nikolaus Schäffer)が編集したという触れ込みの『悪魔の瘴気』は、1839年にシュトラスブルクの出版社G.Silbermannから刊行されている。『バルヴィ大王』のなかでモレッリ自身はニコラウス・シェファーとして登場しており、この名が『悪魔の瘴気』の編者名として使われたわけである。『バルヴィ大王』の完全な版は1冊のみ、『悪魔の瘴気』も2冊が現存するだけらしい。
前者は、要するに飲み仲間だった学生同盟の面々を描いた戯画を古代の美術作品のようにして解説したイコノロジーのパロディ(「バルヴィ」とはその友人のひとりのあだ名である)、後者は大気中の「悪魔的瘴気」をめぐる自然哲学的、生理学的、薬理学的研究のパロディである。画家の友人たちをもち、美術史に強い関心があった医学生モレッリの両面がそれぞれ反映された戯作と言えるだろう。
大学の教授陣の講義や振る舞いを学生がパロディにすることは1830年代ドイツの流行だったらしい(現代の日本でも変わりないかもしれない——ハスミ文体のパロディを自動的に作成するスクリプトがあったことを思い出す)。ネタもとを知らないわかりにくさはあるにせよ、とりあえずは挿画だけでも楽しめる。

『バルヴィ大王』表紙

戯画

『悪魔の瘴気』より、大人用と子供用のガスマスク。

特製顕微鏡やガスマスクのフィルターなどのほか、右の二つは聖なるキリスト教徒の女性の胆汁拡大図(下)と邪悪な人物の胆汁拡大図(上)

死せるシュネック

2007年02月21日

 バイロイト郊外のテュルナウ城で開催された会議「マクルーハン再読」に参加したあと、ミュンヘンに滞在している。「21世紀のメディアと文化についての国際会議」と副題が添えられたこのイベントの趣旨自体に必ずしも共感できるわけではない。だが、この「再読」という契機が突きつけてくる「いま」への問いなしにはどんなテクストの読解も意味をなさないのだし、マクルーハンはとりわけそうした対象として与えられている。そういう意味で、さまざまな領域から集まった発表者がそれぞれにメディアの「いま」を問いかけるこの会議から得たものは多かった。

 会議からの帰途手にした『Der Spiegel』の最新号では「Second Life」の特集記事が組まれており、カールスルーエのメディア理論家/アーティスト、ペーター・ヴァイベルがインタビューに答えて、すでに数百万の住民を持つこのヴァーチャルな「第二の生」のキリスト教的な含意について注釈を加えている。その一方でドイツはいまカーニヴァルの季節を迎えており、束の間立ち寄ったバイロイトの街はめいめいに仮装した子供たちであふれていた。「アヴァター」を身にまとった住民たちが住まうヴァーチャルな世界を、年中続くカーニヴァルと理解することもできるだろう。しかしながら、この仮面への連想がそれとともに喚起しているのは、祝祭空間を生起させるこの生成変化の幼年期的な性格ではないだろうか。ネット上のヴァーチャルな世界もいま可塑的な幼年期にある。そして、マクルーハン再読に意味があるとすれば、それはおそらく彼の「理論」を現在のメディア環境に応用することにではなく、彼のテクストを彼の時代におけるメディアの幼年期との出会いとして、一回的な出来事として読むことにあるのだ。
 『Der Spiegel』では、中国、武漢で夜を徹してコンピューターに向かう「Second Life」の住民がこう述べている。「いま再び新しい世界が構築された。いまはパイオニアの時代だ。…いま眠る者はそれだけで罪である。」

2007年02月17日

『新潮』3月号所収。
「師とは脆いものである。」
由良君美の存在の大きさとその悲劇性に触れる。

四方田氏や高山宏氏との師弟関係について、はじめて詳しく知ることができた。
また、社会学者遠藤知巳氏も由良ゼミ出身という経緯に、何やら知のかたちの継承を見て納得する。
60〜70年代の「脱領域的」な知の運動の背後にいた編集者にして「工作者」、久保覚の存在も大きな発見である。

父である哲学者由良哲次との関係をはじめ、君美にいたる知的な系譜も実に興味深い。
後年になって日本美術や南朝研究に没頭した父とのつながりからは、この作品に名を伏せられたまま登場する人物の父子関係を連想した。

しかし、何と言っても、由良との関係を鏡とし、ジョージ・スタイナーや山折哲雄の師弟論を手がかりに考察される、師と弟子との関係性こそが、この著者にしか書きえない部分だろう。それはあまりに陰翳に富んでいる。
由良をアルコールへの依存にまで陥らせた焦燥の由来と、著者自身が体現している世代の差の振幅のようなものの両者が、グローバル化のもとでの人文知のあり方について考えることを否応なく迫る。

そして、由良との関係をめぐる内省を経たのちに綴られた次のような一節に、自分もまた抱え続けている問題との交錯を見た。
「私見するに、由良君美という存在の再検討は、かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一途を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、もう一度人文的教養の再統合を考えるためのモデルを創出しなければならない者にとって、小さからぬ意味をもっているのではないだろうか。」

(言うまでもなく、以上はこの作品が事実に基づくことを前提としている。それがフィクションを含むかもしれないという点については、判断の材料がない以上、ここでは考慮しない。)[2007.2.18追記]

2007年02月17日

夏学期だけの大学院の演習と冬学期のみの学部生向けの演習について、ようやく授業内容を考える。

大学院(表象文化論演習)はさっそく先日の文献を参考書にして:
人文学のモデルとしての「考古学」と「自然史=博物誌(Natural History)」について考察する。前者についてはフロイトにおける無意識の考古学的探究、ベンヤミンにおける近代性の考古学、フーコーの「知の考古学」と言説分析などがテーマとなりえよう。導入としてKnut Ebeling und Stefan Altekamp: Die Aktualität des Archäologischen in Wissenschaft, Medien und Künsten. Frankfurt am Main: Fischer, 2004を用いる予定(だが、ドイツ語の能力は履修条件とはしない)。後者に関しては、三中信宏『系統樹思考の世界』(講談社現代新書)を糸口に「系譜学」の方法論について扱いたい。それは博物「誌」から進化論的な自然「史」へのNatural Historyの転換を踏まえ、人文知における歴史の科学性を問い直すことである。前史時代研究への系統学的分析の導入などによって考古学と自然史は方法論的な次元で現に結びつきつつあり、授業では二つの方向からのアプローチを緊密に関連づけたい。夏学期だけで扱うにはいささか欲張りなテーマ設定のため、必要に応じて補講をおこなう。

学部生のゼミ(表象文化史演習)は入門編として:
近代デザイン史研究
1.趣旨:近代デザイン史の基礎知識を修得したうえで、現代における「デザインへの欲望」について考察する。グラフィック、エディトリアル、ファッション、クラフト、プロダクトの各デザイン、および建築などについて、何が「良い」デザインなのか、そのデザインが喚起する欲望(購買欲、所有欲)とは何なのかといった問題を、具体的な対象に即し、表象文化論的に分析することを試みる。
2.授業の方法:文献講読については担当者を決め、レジュメを作成のうえ、レポートをしてもらう。参加者が一学期間に1回は発表をおこなう予定。中心となる文献のほかにも、関連する参考文献などの調査、関連するイメージの収集といった作業が必要になる。そのほかに、各自が対象となる「もの」を絞り、そのデザインをめぐる生産・流通・消費のメカニズムやそこに向けられた欲望の様態について分析した発表を同様の形式でおこなう。
3.評価方法:履修と単位取得のためには、原則として次のすべてを必須とする。1)授業における発表(2回):全体評価の約50%。2)レポート(8000字):自分が授業で発表したテーマに関するもの。論文としての形式(註など)を整えて書くこと。締め切りは卒業予定者とそれ以外とで異なる(学期末に指定する)。全体評価の約40%。3)出席点:言うまでもなく、規則的な出席と議論への参加が強く要求される。毎回必ず出席を記録する。全体評価の約10%。
4.授業日程、参考書:授業日程は開講時に示す。教科書:柏木博編『近代デザイン史』(武蔵野美術大学出版局)

2007年02月17日

特集企画者柳澤さんの尽力で執筆依頼も進み、じりじりと進行中。

執筆が無理とのご返事(きわめて味わい深い文章)を頂戴し、自分も出向くつもりでN先生へのインタビューを意気込んだが、深く納得のゆく事情をご説明いただき、無念とはいえ、あきらめる。
K先生もご多忙で無理との感触だったものの、特集を企画した柳澤田実さんの熱意ある再度のお願いの結果、3月下旬の締め切りで何とか執筆していただけることになる。

O氏およびN氏との鼎談の企画は自分の担当だが、いちおうの承諾は得ているものの、なかなか場が設定できず、不透明。これも3月中に原稿までもってゆきたいと願う。

自分の原稿は2月中が目処。しかし、数週間は必要かとやや弱気。

2007年02月16日

Knut Ebeling und Stefan Altekamp: Die Aktualität des Archäologischen in Wissenschaft, Medien und Künsten. Frankfurt am Main: Fischer, 2004. [ISBN 3-596-16177-0]

1970年生まれの編者による論文集。カント、フロイト、ベンヤミン、フッサール、フーコーのテクスト集成のほか、Friedrich KittlerやSigrid Weigelの論考も含む。
Kittlerは最近の仕事同様、古代ギリシア論(「古代ギリシアのアルファベット:文字の考古学のために」)。講演の記録であるため、ごく短い。Weigelはヴァールブルクのムネモシュネについて(そもそもこの論文を読むために取り寄せた)。ヴァールブルクの業績全体に目を配り、論点は整理されていて、ダーウィンとの関係も押さえられている点は流石と言うべきだが、ややこの論集の枠組みに縛られ、要するに人文学的な学問論の範疇に収まっている感が否めない。
編者Ebelingの序論は、知の物質的基盤や「ハードウェア」(ハイデガーが技術の「Gestell」に見ていたもの、と著者は言う)を志向する人文学の欲望が、知やメディアの「考古学」という発想の根底にある構造を析出していて有益。文字通りの考古学における、ポストプロセス考古学などの動向が、こうした人文知の考古学化とは逆のベクトルをもっている現象も興味深い。破砕され、欠落を抱えて不完全な物質的断片からの過去の探究という考古学の営みが、現代の人文学やメディア、芸術と深く交錯している構造自体はわかりやすと言えばわかりやすい。
きわめて明晰な見取り図なのだが、こうした文化科学的展望自体が、やや中途半端なかたちで人文知のハードウェアとソフトウェアの狭間に何やら囲繞されたような印象を与えることも否めない。逆に、Kittlerは確信犯的にそこを逆手にとって、見栄えのいいパフォーマンスを演じていると見切れないこともない。
これは何らネガティヴな評価ではなく、人文知の自意識として自覚すべき限界に過ぎない。ヴァールブルクの仕事を古き良きヨーロッパの実証主義としか見なせない発想の貧しさに比べれば、はるかに生産的だろう。

大学院のゼミは考古学と博物誌=自然史を取り上げようかと思ってみたり。

2007年02月11日

ある雑誌のブログ特集で自分のサイトが取り上げられたおり、「バックステージ」的な情報という紹介のされ方をしたことを思い出す。

そんな舞台裏が書物であるという感覚自体が失われているのかもしれないとも思う。
松岡正剛氏の千夜千冊を面白がったりすること自体がもはや時代遅れと言うか。
つまり、自分自身には根強い、書物に対する強い執着が、若い世代にはなくなりつつあるのではないか、という漠然とした予感。

そもそもこんな電子情報の「舞台」に書くこととは、では、いったい何なのか。
ブログなど書いていないで、累積債務を解消せよ、という声も聞こえてきそうだ。

少なくともこの場は端的に割り切って、事態の流れを時々刻々報告するためのものでしかない。
自分だけが暇で過剰なのかもしれないが、記録としての意味くらいはもつだろう。

例えば、ヴァールブルク研究の進展について書くことは退屈でしょうかね。
わたしは(自分のよく知らない)専門的な研究の先端で起こっていることを知るのが退屈とは思わない。
最近勉強になっているのは三中信宏さんのサイト、とくに、多言語にわたる書物に関する情報ページだ(ここで教えられた本も多いので、遅ればせながら、感謝の意味を込めて)。

もっとも、一番の核心は手短かに伝えようもないアイディアなので、それはひたすら原稿に書くしかないわけです。
要はメディアの使い分けなのだ。書物には硬い鉱物のような稠密性と重さを求めたい。
まあ、そんな理想があるから、つねにハードルが高くなり、遅筆にもなってしまうわけなのだけれど。

2007年02月11日

古書店から届く。ここにもSigrid Weigelが寄稿している。最近、よく目にする名前だ。

ドイツでは著名な文学研究者、ベンヤミンの研究書もある。多和田葉子氏の師匠と言ったほうがわかりやすいか。数年前からWarburgについて論考を多く書いており、そのテーマでシンポジウムも主催している。最近はGenealogie, Generationといった概念をめぐる研究も活発に展開。キットラー、ブレーデカンプとともに、ベルリンの人文知を代表する知性だろう(ただし、彼女はフンボルト大学ではなく、ベルリン工科大学の教授で、ベルリン文学・文化科学センター所長)。

届いた書物は
Sabine Flach, Inge Münz-Koenen und Marianne Streisand (Hg.): Der Bilderatlas im Wechsel der Künste und Medien. München: Wilhelm Fink Verlag, 2005. [ISBN: 978-3770540815]
ヴァールブルクの図像アトラス「ムネモシュネ」を出発点として、文化論の可能性を探る論集。

Weigelは「記憶の芸術−芸術の記憶:アーカイヴと図像アトラスの間、アルファベット化と痕跡の間で」という比較的短い論文を寄稿している。現代芸術における記憶の扱いから説き起こし、記憶術、アーカイヴ、精神分析といった話題をへて、ヴァールブルクの図像アトラスにいたる。
無難といえば無難な流れと言うべきか。
理論的な関心から書かれているので、図像アトラスについて発見はない。強いて言えば、彼女の最近のテーマである系統樹思考との関係を示唆したあたりか。
本書全体については、ざっと見たかぎりでは、Warburg InstituteのArchivistだったDorothea McEwan女史の論文を除くと、ヴァールブルクとはあまり関係なく、テーマは拡散している印象。それはそれでよい。
ただ、「ムネモシュネ」がイメージ・アーカイヴをめぐるさまざまなプロブレマティックにとって都合のいいモデルにしかなっていない状況は、いい加減に何とかならないものか、とは思う(そのモデルとしての側面を自分自身が一時期強調したことは否定しないが)。
そのためには、「ムネモシュネ」そのものとの取り組みが不可欠なはずだ。

2007年02月11日

2週間毎に届くのが楽しみな小冊子。

Frölich & Kaufmannのカタログ。

美術(考古学、写真、建築、デザイン含む)中心だが、文学や音楽も扱っている。
全ページがカラー。

今年出た(出る)Aby Warburg関係の書籍情報を知る。

Karen Michels: Aby Warburg. Im Bannkreis der Ideen. München: Verlag C.H.Beck, 2007.[ISBN 978-3-406-55885-6](amazonの売り上げに貢献する義理もないので、今後はISBNのみ記すことにする。)
128頁と薄く、一種の入門書らしい。

2007年02月11日

参考までに送っていただいた本3冊。

高校生向けの人文書というと、どうしても文学になってしまうのでしょうねえ。

2007年02月08日

アレクサンダー・フォン・フンボルトの大著『コスモス』が届く。

Alexander von Humboldt: Kosmos. Entwurf einer physischen Weltbeschreibung. Frankfurt am Main: Eichborn Verlag, 2004. [amazon.co.jp]

1845年から1862年にかけて出版された初版5巻本を1巻にまとめた、あらたな完全版。Heinrich Berghaus作の美しい多色刷りアトラスも附属している(作者と『コスモス』の出版社との仲違いから初版には付いておらず、合わせて出版されるのはこれが最初という)。



ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーが編纂していた「もうひとつの図書館(Die Andere Bibliothek)」シリーズを代表する一冊。関連するサイトもある。

2007年02月08日

昨晩はみすず書房のH氏(詩人)と清談。本をいただく。

本江邦夫『現代日本絵画』(みすず書房、2006年)[amazon.co.jp]
「日本・現代・美術」との違いが重要。

2007年02月07日

T.J.Clark: The Sight of Death. An Experiment in Art Writing. New Haven and London: Yale University Press, 2006 [amazon.co.jp]の書評を、在ワシントンの稲賀繁美さんにお願いした。

先日、原稿を頂戴する。
随所に刺激的な補助線が引かれており、読者を触発するに違いない。
クラークの鋭利な批評性が浮かび上がることで、その敵や仮想敵の姿も示唆される。
乞うご期待。

2007年02月05日

アンケートの対象者はどうやって選ばれているのだろう?

といった素朴な疑問を毎年感じながら、今年も回答している。
自分が挙げた書物は

佐々木正人『ダーウィン的方法』(岩波書店、2005年)
Horst Bredekamp: Darwins Korallen. Berlin: Wagenbach, 2006.
バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー』(高山宏訳、産業図書、2006年)
岡田温司『芸術と生政治』(平凡社、2006年)
E・T・シートン『シートンの自然観察』(藤原英司訳、どうぶつ社、1985年)
伊藤邦武『パースの宇宙論』(岩波書店、2006年)
中沢新一『芸術人類学』(みすず書房、2006年)
『ヴァールブルク著作集』(ありな書房)
『デュメジル・コレクション』(ちくま学芸文庫)
レヴィ=ストロース『神話論理』(みすず書房)
選択はできるだけこのアンケートの場にとって異質なものになるように心がけている。

食指が動いたのは

菅原和孝編『フィールドワークへの挑戦』(世界思想社、2006年)
水林彪『記紀神話と王権の祭り』(岩波書店、1991年)
長谷川眞理子他『行動・生態の進化』(岩波書店、2006年)
斎藤成也他『ヒトの進化』(岩波書店、2006年)
パーカー『眼の誕生』(渡辺政隆・今西康子訳、草思社、2006年)
ドーキンス『祖先の物語』(垂水雄二訳、小学館、2006年)
長谷川眞理子『ダーウィンの足跡を訪ねて』(集英社、2006年)
山口恵理子『椅子と身体:ヨーロッパにおける「座」の様式』(ミネルヴァ書房、2006年)

廣瀬浩司氏がジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『ジャコメッティ:キューブと顔』(石井直志訳、PARCO出版、1995年)を挙げ、「よきアマチュア主義にこそユベルマンの本領があると納得しなおす。彼は理論の人でも論争の人でもない」と書いている。「よきアマチュア主義」という点には同意するところがなくもない。だが、論争は挑まれれば戦うしかないものなので、「論争の人ではない」と切って捨てることにどれほどの意味があるのかとも思う。そもそも「本領」などという規定はどうでもいいのではなかろうか。ヴァールブルク研究などでユベルマンと関心が重なり、大きな刺激を受けてきたことのほかには何の縁ももたない者ながら、そんなちょっとした違和感を覚えた。

カトリックを中心に近代化イコール世俗化のテーゼを修正した翻訳書と市野川容孝氏の『社会』(岩波書店、2006年)を三島憲一氏(この人の回答にはいろいろな意味で毎年注目している)が絶賛しているのをさもありなんと思う(その内実はあえて語らないでおく)。後者についてはほかに数人が挙げているが、その評言に共通性があることは興味深い。

これだけのデータが毎年蓄積されているのだから、それを分析して知識人論ができるのではないだろうか。かなり偏ったリストには違いないが、その偏りが何かを意味することもあるだろう。

2007年02月04日

新宿、2007年1月21日





2007年02月03日

東京大学医学部附属病院分院、雑司ヶ谷霊園、2007年1月21日







2007年02月02日

エルンスト・カントロヴィッチの論文抜き刷りから。

数年前に古書店のカタログで見つけて入手した抜き刷り。
Ernst H. Kantorowicz: On the Golden Marriage Belt and the Marriage Rings of the Dumbarton Oaks Collection. An Offprint from Dumbarton Oaks Papers, 14. The Dumbarton Oaks Research Library and Collection, Washington, D.C. Distributed by J. J. Augustin, Publisher: Locust Vally, New York. Library of Congress Catalog Card Number 42-6499.

1958年5月にDumbarton Oaks Research Library and Collectionで開かれたシンポジウム「The Dumbarton Oaks Collection: Studies in Byzantine Art」で読み上げられた論考とのこと。1951年4月に同じ場所でおこなわれた「Roman Coins and Christian Rites」に関する講演に基づくという。Dumbarton Oaks Collectionに収められた黄金製結婚ベルトビザンチンの結婚指輪を取り上げ、古代ローマからビザンチン帝国下のキリスト教に引き継がれた結婚儀礼の表象を考察している。
この抜き刷りで注目されるのは、表紙の右上に書き込まれた献辞だ。このような書き込みがあることは手にしてはじめて知った。

それはこう読める。

To Pan and Dora
gratefully as ever
EKa
Pan and Doraという名前から連想されるのは、プリンストン高等研究所でカントロヴィッチの同僚だった、同じドイツからの亡命知識人、アーウィン・パノフスキーとその妻ドーラである。Doraはともかく、パノフスキーがPanと呼ばれていたかどうかの確信がもてなかったのだが、それがパノフスキーのあだ名だったことを、パノフスキーの書簡集についての書評で知った(その書簡集とはErwin Panofsky: Korrespondenz 1910 bis 1968. Eine kommentierte Auswahl in fünf Bänden. Herausgegeben von Dieter Wuttke. Band III: Korrespondenz 1950 bis 1956. Wiesbaden: Harrassowitz, 2006 [amazon.co.jp])。
この抜き刷りはEKaと署名した中世史家から古代神話の自然神の名で呼ばれた美術史家とその妻(彼女もまた美術史家だった)へと贈られたものだったのである。
薄い冊子に書き込まれた短い謝辞に、20世紀の亡命知識人たちがもちえた濃密な知的交流の時間を透かし見る。

2007年02月01日

「景観・耐震偽装問題の根源を鋭くえぐる」!

ジョン・ラスキン『ヴェネツィアの石:建築・装飾とゴシック精神』(内藤史朗訳、法藏館、2006年)[amazon.co.jp]

原書全三巻のうち、第一巻の一章と第二巻のほぼ全部を訳出。
全訳は某出版社から一冊四万円近い値段で出ていたが、今は品切れらしい。
このように基本的な書物の全訳が、図書館のみに所蔵されることを想定したような価格設定で販売される状況は、決して健全なものとは思えない。
抄訳ではあれ、こうした書物の出版は歓迎すべきだろう。
しかし、結果的にラスキンの受容がいびつなものになりかねない恐れもあるに違いない。