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2007年02月16日

Knut Ebeling und Stefan Altekamp: Die Aktualität des Archäologischen in Wissenschaft, Medien und Künsten. Frankfurt am Main: Fischer, 2004. [ISBN 3-596-16177-0]

1970年生まれの編者による論文集。カント、フロイト、ベンヤミン、フッサール、フーコーのテクスト集成のほか、Friedrich KittlerやSigrid Weigelの論考も含む。
Kittlerは最近の仕事同様、古代ギリシア論(「古代ギリシアのアルファベット:文字の考古学のために」)。講演の記録であるため、ごく短い。Weigelはヴァールブルクのムネモシュネについて(そもそもこの論文を読むために取り寄せた)。ヴァールブルクの業績全体に目を配り、論点は整理されていて、ダーウィンとの関係も押さえられている点は流石と言うべきだが、ややこの論集の枠組みに縛られ、要するに人文学的な学問論の範疇に収まっている感が否めない。
編者Ebelingの序論は、知の物質的基盤や「ハードウェア」(ハイデガーが技術の「Gestell」に見ていたもの、と著者は言う)を志向する人文学の欲望が、知やメディアの「考古学」という発想の根底にある構造を析出していて有益。文字通りの考古学における、ポストプロセス考古学などの動向が、こうした人文知の考古学化とは逆のベクトルをもっている現象も興味深い。破砕され、欠落を抱えて不完全な物質的断片からの過去の探究という考古学の営みが、現代の人文学やメディア、芸術と深く交錯している構造自体はわかりやすと言えばわかりやすい。
きわめて明晰な見取り図なのだが、こうした文化科学的展望自体が、やや中途半端なかたちで人文知のハードウェアとソフトウェアの狭間に何やら囲繞されたような印象を与えることも否めない。逆に、Kittlerは確信犯的にそこを逆手にとって、見栄えのいいパフォーマンスを演じていると見切れないこともない。
これは何らネガティヴな評価ではなく、人文知の自意識として自覚すべき限界に過ぎない。ヴァールブルクの仕事を古き良きヨーロッパの実証主義としか見なせない発想の貧しさに比べれば、はるかに生産的だろう。

大学院のゼミは考古学と博物誌=自然史を取り上げようかと思ってみたり。