« 2007年02月 | メイン | 2007年05月 »

2007年03月27日

3月25日、北京中心部から車で1時間弱のところにある宋庄(宋荘)の芸術家村に、秋山さんの知人であるパフォーマンス・アーティスト、王楚禹氏を訪ねる。王氏とは前日、北京のアート地区798の画廊オープニングでお会いしていた。彼はこのオープニングを飾るパフォーマンス連続公演のキュレイターである。

パフォーマンス公演のひとつ。

参加したアーティストたち。

宋庄は恐ろしく広大な土地で、そこにアーティストたちの自宅・アトリエや美術館が点在している。王氏や友人のアーティストたちとそのいくつかを見て回る。



手前の左から二人目が王氏。

道路沿いに見つけた奇妙な建物。何かの賞を受けたアメリカ人建築家の作品だというが不詳。竣工後3年経つのに、何にも使われていないという。

王氏の話のなかで、政権の「正統性」ないし「正当性」という観念に行き当たる。
正統にして正当な権威が天皇制というかたちで曖昧に保証されているかのような日本にあっては、この問い自体が先鋭化しないのではないだろうか。798のイベントでパフォーマンスを演じた日本人アーティスト(いずれも女性であったことは象徴的)が、シャーマニズムを連想させるような儀礼を上演していたことも、その意味では示唆的なように思われた。

対して、彼の地ではパフォーマンスとは直接的な「政治」行動なのだろう。
翻ってこの地では、芸術による「国家論」とは、高度に知的な議論ではありえても、パフォーマンスにはなりえない。

2007年03月24日

南京大学の表象文化論集中講義のため、中国・南京市に滞在中。
今日は、今回の集中講義に同行した助手の秋山珠子さんの紹介で、南京を代表する人文社会系の書店先鋒書店のオーナー、銭曉華氏にお会いした。

2004年秋の初来訪時にも、たまたま宿泊したホテルの目の前にあって、地下駐車場を大胆に使った広大な売り場に強い印象を受けた書店。
昨年もお会いしてお話をうかがった。
今回は学者や芸術家が多く住む地域にオープンした新店舗を案内していただく。

日本で言えば青山ブックセンターか。
秋山さんに訳してもらいながらうかがったお話によると、オーナーは今後も知識人のための会員制のサロンのような書店を作りたいなど、旺盛なアイディア。
新店舗の前で。

本店の店内(2006年撮影)。

インターネットによって、ネットワークが容易に築かれたようでいて、共有する空間がかえって失われたように見える状況は、東京のほうが深刻かもしれない。
漫然と無駄な(目的のない)時間をそこで過ごすことができる「市中の山居」のような空間は、今だからこそ、必要だろう。

2007年03月17日

「進化と系譜:ツリー,ネットワーク,視覚言語リテラシー」
オーガナイザー・司会:三中信宏(農業環境技術研究所/東京大学大学院農学生命科学研究科)

日時:2006年4月8日(日)13:00〜15:30
場所:立教大学(豊島区西池袋)
このシンポジウムについては、非会員の参加も自由とのことです。

演者・演題:
13:00 - 13:30
 三中信宏(農環研/東大・院・農生→website)
「ツリーとネットワーク:系図言語とそのリテラシー」

13:30 - 14:00
 中村雄祐(東大・院・人文社会・言語動態→website)
「現代世界における「リテラシー」と生存」

14:00 - 14:30
 細馬宏通(滋賀県立大・人間文化→website)
「絵の宛先の革命 — 郵便改革と絵はがきの登場 — 」

14:30 - 15:00
 田中 純(東大・院・総合文化・超域文化科学→website)
「イメージの/イメージによる系譜学:人文学の図像的転回をめぐって」

15:00 - 15:30 総合討論

2007年03月17日

懸案は終えて、ようやく先が見えてきたといったところ。

岡崎乾二郎さん、中谷礼仁さんとの座談会を終えて、あとは連載などの最終的な調整を待つのみ。
今しばらくお待ちください。

2007年03月01日

さる任務の待機時間中にジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史』(上村忠男訳、岩波書店、2007年)[ISBN 978-4-00-025457-1]を読んだ。題名には「幼児期」とあるが、正確には「言葉を語らない状態」あるいは「言語活動をもたない状態」という意味での「インファンティア」であり、本文中では一貫して「インファンティア」が用いられている。

この人の思考の速度やリズムが性に合うのか、書かれていない行間に刺激されているのか、いつものように発見の多い書物。アガンベンが注視するのはここでもまた、儀礼と遊戯、ベンヤミンの「事象内実」と「真理内実」といったものの境界、「閾」である。ベンヤミンに通じる「敷居学」。
ここは書評の場ではないので、覚え書きとしてのメモのみ。
遊び道具を「純粋状態における〈歴史的なもの〉」と定義づけたり、「ミニチュア化とは歴史の暗号のことなのだ」といった断言には、カッチャーリのロース論を連想させる洞察がある。人間の生と死をめぐる閾の形象としての幼児と亡霊に関する「おもちゃの国」における分析をはじめとして、いずれの章の議論も、この著者らしく構造がきわめて明快でわかりやすい。附論と言うべき「おとぎ話と歴史」で取り上げられるのが、文字通りの「ミニチュア」である「プレセペ(プレゼピオ)」という点も、ベンヤミン的な手つきと言うべきか。ベンヤミン読みのベンヤミン知らず、といった感のある、無粋なベンヤミン論に辟易させられることが多いなかでほっとする。
カルヴィーノらと計画していたという雑誌のための綱領で、アガンベンは西洋文化の特性を、事象内実と真理内実の「ずれ」、修復不可能な断絶に見ている。それゆえに要請される方法が「文献学」だ。「批判的神話学」としての「文献学」。それはあらゆる「批判的・文献学的学科」を指している(彼はそれらを別の場所で「名前なき科学」と呼んでいる)。彼らの雑誌はそんな文献学が詩と同一視されるような場を開こうとするのである。
この綱領に対する「歴史的・文献学的後記」のなかではデュメジルが自己を規定するために用いた「超歴史のフリンジの歴史家」という言葉が引かれている。「超歴史のフレンジ」とは、通時態と共時態とのずれと差異そのものであるような、「歴史的アルケー」(あるいは「共時的歴史性」)にほかならない、とアガンベンは言う(それはデュメジルの比較神話学が「構造」と「歴史」のあいだの揺れ動きを糧としていた、ということだろう)。幼児が遊戯とおとぎ話のなかで神話的な世界を儀礼的なものへの隷属から解き放つように、文献学は神話を儀礼から、歴史をクロノロジーと機械論的図式から救済する。批判的神話学とは文献学が西洋文化に与えた「新しい幼児期」なのだ。
そして、例えば『ホモ・サケル』をはじめとするアガンベンの仕事もまた、バンヴェニスト、デュメジルの系譜に連なる、「文献学」にほかならないのである。

文献学を口にする研究者は多い。
しかし、通時態と共時態とのずれという「閾」において、歴史的「細部」のアルケー的な「構造」を示しうる「読み手」としての文献学者はきわめて少ない、と言うべきだろう。「読むこと」に耽溺しすぎなのだ。そして、それは実は、閾を見失っているということでしかない。

2007年03月01日

佐々木正人編『包まれるヒト:〈環境〉の存在論』(岩波書店、2007年)[ISBN 978-4-00-006954-0]を書店で見つけて購入。新書のような、入門書のような造りのせいもあり、たちまち読み終える。

「包囲の哲学」と題された第2章で染谷昌義氏が触れている環境存在論や環境形而上学の動向(とくにバリー・スミスの「穴の存在論」)が興味深い。佐々木氏+染谷氏+齋藤暢人氏の鼎談「アンダーグラウンド哲学史」では、ライプニッツ、ホワイトヘッド、パースといった系譜が辿られている。齋藤氏や染谷氏は、身の回りの記述から始める哲学によって、哲学の「オーディエンス」を開拓したり、哲学以外のさまざまなジャンルにおける「周囲の存在」を発見しようとする試みへ目配りする必要性を語っている。そこで染谷氏は今和次郎の考現学に言及しているのだが、それであれば、『パサージュ論』まではもう一歩だろう。十年以上前に『建築文化』に書いたベンヤミン論で、ベルクソンとも絡めて「パサージュの生態心理学」について短く触れたことがあるが、そこでの直感は間違っていなかったと思う(この話題は昨年11月の佐々木氏+小林康夫氏との鼎談でも取り上げた)。『パサージュ論』で模索されていたのは、19世紀のパリという「環境」の記述法だった。ベンヤミンの言う「イメージ」とは、像ではなく、包囲光的環境である、という着想がにわかに訪れる。

ホンマタカシ氏+佐々木氏の対談「環境と写真」では生態心理学から見た写真史がざっくりと語られている。それはそれで面白いのだが、気になるのは、ギブソンが写真をどう論じたかではなくて、ギブソンが自著のなかで写真をどう使ったかのほうだ。つまり、写真における生態心理学的知覚以上に、写真によって包囲された環境こそが問題ではなかろうか。その点で、自分の生活全体を撮り続けるヴォルフガング・ティルマンスという写真家には要注目。ついでに言えば、ブレッソン流の写真の「決定的瞬間」には周知の通りの美学的な前史があることを思い出させられた。そうした点を含め、厳密に語り出せばきりがないテーマなので、やや物足りなく感じられるのは仕方のないところだろう。

青山真治氏の「映画にとって身振りとは何か」はアガンベンの引用から始まっている。そして、青山氏による「定式化しえないカオス状態の自他が織り成すレイアウトを、曖昧な感覚によってフレーム化=統合する、というほとんど賭けに近い試み、それが映画の造形であるとしか言いようがない」という見事な断言。しかし、末尾で映画をテレビと対比したうえで語られる、テレビはどんなに画質を高めたところで、電気信号という技術的な性格上、「身振り」の触知は不可能である、という断定のほうはよく理解できない。こんなふうに映画を擁護する「身振り」がなぜ殊更に必要なのだろうか。

全体として、空間的な「包囲」をめぐる考察や記述の試みについての展望はほぼわかった。では、時間はどうなのか。予感や余韻とは、いったいどんな時間性をもった「環境」との相互作用なのか。そして、記憶や歴史はどうなのか。過去の環境を再構成し記述するための方法論とはどのようなものでありうるのだろうか。例えば、ベンヤミンが屑拾いに譬えたミクロロジー——そのひたすらな蒐集癖が目指したものとは、いわば「包囲の歴史」といったものではなかっただろうか。
「包囲」や「環境」を知覚や自然といった文脈から歴史の文脈へと移し入れること、いや、むしろその狭間——自然史——における「包囲」および「環境」の思考へと連想は誘われてゆく。