包まれるヒト|田中純 2007年03月01日
佐々木正人編『包まれるヒト:〈環境〉の存在論』(岩波書店、2007年)[ISBN 978-4-00-006954-0]を書店で見つけて購入。新書のような、入門書のような造りのせいもあり、たちまち読み終える。
「包囲の哲学」と題された第2章で染谷昌義氏が触れている環境存在論や環境形而上学の動向(とくにバリー・スミスの「穴の存在論」)が興味深い。佐々木氏+染谷氏+齋藤暢人氏の鼎談「アンダーグラウンド哲学史」では、ライプニッツ、ホワイトヘッド、パースといった系譜が辿られている。齋藤氏や染谷氏は、身の回りの記述から始める哲学によって、哲学の「オーディエンス」を開拓したり、哲学以外のさまざまなジャンルにおける「周囲の存在」を発見しようとする試みへ目配りする必要性を語っている。そこで染谷氏は今和次郎の考現学に言及しているのだが、それであれば、『パサージュ論』まではもう一歩だろう。十年以上前に『建築文化』に書いたベンヤミン論で、ベルクソンとも絡めて「パサージュの生態心理学」について短く触れたことがあるが、そこでの直感は間違っていなかったと思う(この話題は昨年11月の佐々木氏+小林康夫氏との鼎談でも取り上げた)。『パサージュ論』で模索されていたのは、19世紀のパリという「環境」の記述法だった。ベンヤミンの言う「イメージ」とは、像ではなく、包囲光的環境である、という着想がにわかに訪れる。
ホンマタカシ氏+佐々木氏の対談「環境と写真」では生態心理学から見た写真史がざっくりと語られている。それはそれで面白いのだが、気になるのは、ギブソンが写真をどう論じたかではなくて、ギブソンが自著のなかで写真をどう使ったかのほうだ。つまり、写真における生態心理学的知覚以上に、写真によって包囲された環境こそが問題ではなかろうか。その点で、自分の生活全体を撮り続けるヴォルフガング・ティルマンスという写真家には要注目。ついでに言えば、ブレッソン流の写真の「決定的瞬間」には周知の通りの美学的な前史があることを思い出させられた。そうした点を含め、厳密に語り出せばきりがないテーマなので、やや物足りなく感じられるのは仕方のないところだろう。
青山真治氏の「映画にとって身振りとは何か」はアガンベンの引用から始まっている。そして、青山氏による「定式化しえないカオス状態の自他が織り成すレイアウトを、曖昧な感覚によってフレーム化=統合する、というほとんど賭けに近い試み、それが映画の造形であるとしか言いようがない」という見事な断言。しかし、末尾で映画をテレビと対比したうえで語られる、テレビはどんなに画質を高めたところで、電気信号という技術的な性格上、「身振り」の触知は不可能である、という断定のほうはよく理解できない。こんなふうに映画を擁護する「身振り」がなぜ殊更に必要なのだろうか。
全体として、空間的な「包囲」をめぐる考察や記述の試みについての展望はほぼわかった。では、時間はどうなのか。予感や余韻とは、いったいどんな時間性をもった「環境」との相互作用なのか。そして、記憶や歴史はどうなのか。過去の環境を再構成し記述するための方法論とはどのようなものでありうるのだろうか。例えば、ベンヤミンが屑拾いに譬えたミクロロジー——そのひたすらな蒐集癖が目指したものとは、いわば「包囲の歴史」といったものではなかっただろうか。
「包囲」や「環境」を知覚や自然といった文脈から歴史の文脈へと移し入れること、いや、むしろその狭間——自然史——における「包囲」および「環境」の思考へと連想は誘われてゆく。