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2007年03月01日

さる任務の待機時間中にジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史』(上村忠男訳、岩波書店、2007年)[ISBN 978-4-00-025457-1]を読んだ。題名には「幼児期」とあるが、正確には「言葉を語らない状態」あるいは「言語活動をもたない状態」という意味での「インファンティア」であり、本文中では一貫して「インファンティア」が用いられている。

この人の思考の速度やリズムが性に合うのか、書かれていない行間に刺激されているのか、いつものように発見の多い書物。アガンベンが注視するのはここでもまた、儀礼と遊戯、ベンヤミンの「事象内実」と「真理内実」といったものの境界、「閾」である。ベンヤミンに通じる「敷居学」。
ここは書評の場ではないので、覚え書きとしてのメモのみ。
遊び道具を「純粋状態における〈歴史的なもの〉」と定義づけたり、「ミニチュア化とは歴史の暗号のことなのだ」といった断言には、カッチャーリのロース論を連想させる洞察がある。人間の生と死をめぐる閾の形象としての幼児と亡霊に関する「おもちゃの国」における分析をはじめとして、いずれの章の議論も、この著者らしく構造がきわめて明快でわかりやすい。附論と言うべき「おとぎ話と歴史」で取り上げられるのが、文字通りの「ミニチュア」である「プレセペ(プレゼピオ)」という点も、ベンヤミン的な手つきと言うべきか。ベンヤミン読みのベンヤミン知らず、といった感のある、無粋なベンヤミン論に辟易させられることが多いなかでほっとする。
カルヴィーノらと計画していたという雑誌のための綱領で、アガンベンは西洋文化の特性を、事象内実と真理内実の「ずれ」、修復不可能な断絶に見ている。それゆえに要請される方法が「文献学」だ。「批判的神話学」としての「文献学」。それはあらゆる「批判的・文献学的学科」を指している(彼はそれらを別の場所で「名前なき科学」と呼んでいる)。彼らの雑誌はそんな文献学が詩と同一視されるような場を開こうとするのである。
この綱領に対する「歴史的・文献学的後記」のなかではデュメジルが自己を規定するために用いた「超歴史のフリンジの歴史家」という言葉が引かれている。「超歴史のフレンジ」とは、通時態と共時態とのずれと差異そのものであるような、「歴史的アルケー」(あるいは「共時的歴史性」)にほかならない、とアガンベンは言う(それはデュメジルの比較神話学が「構造」と「歴史」のあいだの揺れ動きを糧としていた、ということだろう)。幼児が遊戯とおとぎ話のなかで神話的な世界を儀礼的なものへの隷属から解き放つように、文献学は神話を儀礼から、歴史をクロノロジーと機械論的図式から救済する。批判的神話学とは文献学が西洋文化に与えた「新しい幼児期」なのだ。
そして、例えば『ホモ・サケル』をはじめとするアガンベンの仕事もまた、バンヴェニスト、デュメジルの系譜に連なる、「文献学」にほかならないのである。

文献学を口にする研究者は多い。
しかし、通時態と共時態とのずれという「閾」において、歴史的「細部」のアルケー的な「構造」を示しうる「読み手」としての文献学者はきわめて少ない、と言うべきだろう。「読むこと」に耽溺しすぎなのだ。そして、それは実は、閾を見失っているということでしかない。