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2007年08月24日

8月31日の午後、京都にてフォーラム 「イメージ(論)の臨界――イメージの氾濫を前にいかに思考するか」が行われます。

「 8月末に若手研究者を中心とするフォーラムを京都大学にて開催します。
残暑厳しい時節ではありますが、皆様のご参加をお待ちしております。
                                       
フォーラムタイトル
「イメージ(論)の臨界――イメージの氾濫を前にいかに思考するか」

日時: 2007年8月31日(金)13時から
場所: 京都大学大学院人間・環境学研究科棟233号室
http://www.kyoto-u.ac.jp/access/kmap/map6r_ys.htm
主催: 科学研究費萌芽研究「美術史の脱構築と再構築」(代表:岡田温司)
問い合わせ: 岡田研究室075-753-6546


パネラーおよび発表タイトルと要旨

郷原佳以(東京大学大学院・日本学術振興会特別研究員)

「「逆説的なオブジェ」としての文学言語--ブランショにおけるマラルメとジャコメッティ」

 「イメージのインフレーション」の進行に伴って、再-現前化としての表象概念を批判的に検討し、ある種のイメージ信仰に警鐘を鳴らすことが戦後思想にとっての急務であったとすれば、ここ十年ほどの西欧思想においてはやや別の角度から「イメージ」に光があてられている(『水声通信』2006年10月号岡田温司論考)。ディディ=ユベルマン、マリ=ジョゼ・モンザンといった狭義のイメージの専門家のみならず、アガンベン、ナンシー、ランシエールといった哲学者が「イメージ」を主題に据えて次々と思索を展開する様にひとつの徴候を認めないわけにはいかない。現代におけるこのような「イメージ」概念再浮上の背後に共通した名前を見て取ることが許されるとすれば、そのひとつはモーリス・ブランショのそれである。このことは一見奇妙なことに思われよう。なぜならブランショといえば「書くこと(エクリチュール)」を視覚的思考から解放し、極限まで純粋化して思考した文学者として知られているからだ。しかし、にもかかわらず彼の文学論はある種のイメージをめぐる思考に貫かれている。だとすれば、つまり、表象=再現前的な物語の終焉を宣した文学論が、それでもなお、ある種のイメージの思考に行き着くとすれば、この思考が、表象批判を通過した後のイメージ論と響き合うのは不思議ではない。本発表では、遠近法から逃れる「逆説的なオブジェ」の現出を文学言語に見出した文学者ブランショの思考を、現代のイメージ論のひとつの先駆として紹介したい。


橋本一径(東京大学大学院・日本学術振興会特別研究員)

「身体の亡霊たち ――その弔いを目指して」 

 1930年代に渡米したオーストリア出身の精神科医ポール・シルダーは、1950年に初版の刊行された書物『人体のイメージと見た目(The Image and Appearance of the Human Body)』のなかで、事故などで手足を失った人々が、なおも自らの手足の存在を「亡霊」として感覚するという現象を手がかりに、身体イメージの主観的なステータスについての分析を行うだろう。一方、1920年代のボストンでは、霊媒師マージェリーが、自らの呼び出した心霊 「ウォルター」の指紋をせっせと採取し、降霊会の観客たちにおみやげとして持ち帰らせることになる。本発表は、近代において身体に憑依を始めた、様々な亡 霊たちをめぐる考察である。亡霊とは「死者」の蘇りであると仮に定義するなら、本発表はその「死」を、19世紀の医学 的言説に求め、「殺害」の現場を特定することによって、「弔い」の行為とすることを目指したい。


阿部真弓(ボローニャ大学美術史専門課程)

「タイムラグ――イメージに包囲される絵画」

 1911年。「透視図法の黄昏」にあってなお、デキリコの形而上絵画は未だ「甘美な遠近法」とともにある。伝達、移動、情報の、新しく、巨大化した装置・媒体、それらがもたらす距離と心理の変容を高らかに謳った未来主義において、ウンベルト・ボッチョーニやジャコモ・バッラら画家たちは、異質な「時間」の出現を知覚しながらも、新しい「世界感覚」や「イメージの感情的価値」をあくまでも絵画と彫刻において再現しようと試みていた。「機械的自然」の時空が画布のうちに到着しようとする時、画面はあたかも映画的なショットを模しはじめる。描かれた像は自らの物質性とイメージとの近似性との間で宙吊りとなってはいなかったか。あるいは「運動の表象」という探究における絵画の致命的な遅れ。象徴主義的精神と形式に対する「時代遅れの忠誠心」。かくも人間的なこれらのタイムラグに関わる形象を分析する。


千葉雅也(東京大学大学院・日本学術振興会特別研究員)

「ドゥルーズと可塑性」 

 形作ること/形を超えること――とりわけ『ザッハー=マゾッホ紹介』 (1967年)において、マゾヒズム/サディズムの差異に重ねられ たこの対比は、ドゥルーズ哲学の根本的ダイナミズムである「潜勢的なものの現勢化」と密に関わっている。本発表は、この対比が表現しているもの、すなわち「形態」そして「形式」(forme)の「可塑 性」(plasticite)という問題系が、存在論と美学のドゥルーズ的な合流点においてどのように構造化されているのかを検討したい。そ のため、前掲『マゾッホ紹介』の細部から『差異と反復』(1968 年)の根幹を問い直すという読解手法をとったうえで、『フランシス・ ベーコン――感覚の論理』(1981年)など、後期の芸術論についても考察することになるだろう。その過程で、カトリーヌ・マラブーの哲学における「可塑性」概念とドゥルーズを比較することも試みたい。


鯖江秀樹(京都大学大学院・日本学術振興会特別研究員)

「グラムシと強迫的な影としてのイメージ」

 ひとつの実験的な試みとして、「イメージ」という語に沿ってアントニオ・グラムシの 『獄中ノート』を解読すると、彼の立場からして現実には想像することすらありえない(あるいは、あってはならない)矛盾した解釈や認識(たとえば「国家なき国家のイメージ《immagine di Stato senzaStato》」)を指示するために、その語が用いられているのがわかる。それとは逆に、家族に宛てた手紙でこの獄舎の思想家は、同じく歴史に対するイメージや幻想を示唆しつつ、「死んだもの(cose morte)から解放されるのは、残念ながら難しいのです」と記した。イメージに対するこの両義的で強迫的な立場は、グラムシを同時代に書かれた批評言説へと駆り立てる契機となったのではないか--今回は、近年の視覚文化研究の制度化にともなって再浮上してきた「言葉とイメージ」という、古典的ではあるがきわめて意義深い問題系を念頭におきつつ、グラムシと当時の言説、イメージが切り結ぶ複雑な関係を捉えなおしたい。


岡部宗吉(京都大学大学院・博士後期課程)

「音・イメージ・言葉」

 音楽の本質は言葉を超えたところにあるといわれる。たしかに、音楽または音を聴いた印象を言葉や視覚イメージに置き換えるのは難しい。とはいえ、その困難な作業に取り組む者はいつでも存在するし、そもそも、「音楽は耳を澄ませて聴くもの」という音楽観があまりに一面的で近代的なものであることも事実である。そのことは、かつて西洋において音楽が数学的四科に数えられていたことを思い出せば十分だろうし、音楽を聴覚以外の感覚と交差させる試みはさまざまな局面にあまた見出すことができる。たとえば16世紀のマドリガーレやJ.S.バッハの作品にみられる、歌詞の各単語の意味を楽譜上で視覚的にあらわす手法、あるいはリストのピアノ曲におけるアクロバティックな手の運動など。そうした具体例をとおして、いかに音楽学の側から「イメージ」の議論に切り込むことができるか、探ってみたい。


岡本源太(京都大学大学院・博士後期課程)

「時をともにする――イメージの経験と認識についての試論」

 イメージを眼差す。そのときわたしたちは、イメージにおいて現在を経験するのだろうか、それともイメージをとおして過去を認識するのだろうか。イメージとして見られるのは、現在にある作品なのだろうか、それとも過去にあった営為なのだろうか。とりわけ美術史がつねに直面せざるをえなかったこの問いの消息を、この機にしばしたどってみることにしたい。とはいえ、実のところ、この問いはイメージを眼差すことのうちですでに答えられてもいる。この問いはそもそもありえないのだ。というのも、イメージを眼差すことのうちでは、過去と現在は分断されず、現在の経験と過去の認識は混淆しており、いわばひとつであるからだ。そのとき、あらためて問うべきものとして姿をあらわすのが――ダニエル・アラスが「アナクロニックな同時代性」という語で示唆したように――「同時性=同時代性」の問題だろう。同時性=同時代性、つまり時をともにすることは、単純に現在という同じ時点にあることではありえない。それはむしろ、相互作用的な共存のことであり、見えているものと見えていないものが変転しゆくアナクロニズムの過程なのではないだろうか。


唄邦弘(神戸大学大学院・博士後期課程)

「バタイユにおける供犠的イメージ」

 バタイユの生涯には、最も「決定的な役割」を果たしたと言われる一枚の写真が存在する。バタイユにとって、そのイメージは暴力的な苦痛と魅惑的な恍惚の感情を引き起こすイメージだった。そこには、「見る」という激しい欲望が働いている。しかしバタイユの視覚は、夜の闇の中で絶えず挫折させられ、その欲望は、恐怖の叫びとなる。それによって見る=知るという人間の理性的行為は、叫びをあげるという動物的な行為へと開かれる。バタイユがアセファルのイメージによって示した人間的理性の放棄は、こうした両義的な体験の中で捉えられなければならない。バタイユにとってそれは、人間的存在でも動物的存在でもない、至高の存在なのである。本発表の目的は、まさにこうしたバタイユの特異な体験を、彼の写真イメージを介して引き起こされる瞬間的な身ぶりを捉えることによって明らかにすることにある。


司会 多賀健太郎(大阪大学大学院・専任講師)

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