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    <title>SITE ZERO Diary Blog</title>
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    <updated>2007-12-03T09:38:33Z</updated>
    <subtitle>SITE ZERO/ZERO SITE 関係者が綴るダイアリー。
さまざまな情報、日々の関心を投稿します。</subtitle>
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    <title>トークセッション：田中純×大宮勘一郎「ベンヤミン、あるいは都市の書法」</title>
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    <published>2007-12-03T09:33:58Z</published>
    <updated>2007-12-03T09:38:33Z</updated>
    
    <summary>ベンヤミンから都市へ、あるいはベンヤミンの都市へ──。 田中純『都市の詩学──場...</summary>
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        ベンヤミンから都市へ、あるいはベンヤミンの都市へ──。

田中純『都市の詩学──場所の記憶と徴候』（東京大学出版会、発売中）、大宮勘一郎『ベンヤミンの通行路』（未來社、12月5日発刊予定）の2冊の刊行を記念したイヴェントが、12月10日（月）18：30〜、ジュンク堂書店新宿店にて行なわれます。


        <![CDATA[都市を遊歩し、陶酔し、低徊し、そして記述した批評家ヴァルター・ベンヤミン。19世紀から21世紀へと世紀の閾をこえて、思考のモデルとしてのベンヤミンを「いま・ここ」に召還し、その書法（スタイル）を問う。写真・映画・建築・文学・考古学にわたって横断的な都市論を展開する田中純、そして、ベンヤミンのテクストから、記憶と回想、物語と分身、複製技術と残余、批評と翻訳の問いを切り開く大宮勘一郎──東京大学教養学部ドイツ科同窓の両氏による、初対談。

日時：2007年12月10日（月）18：30〜
会場：ジュンク堂書店新宿店・8F喫茶
入場料：1000円（1ドリンク付）・定員40名・要予約
予約受付：ジュンク堂書店新宿店7Ｆカウンター（電話03-5363-1300）

詳細は以下をご覧ください。
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    <title>『10＋1』「瀝青会」──今和次郎『日本の民家』再訪イヴェントのご案内｜飯尾次郎</title>
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    <published>2007-09-14T08:42:06Z</published>
    <updated>2007-09-14T09:05:18Z</updated>
    
    <summary>『SITE ZERO』責任編集者・田中純氏をお招きして下記のイヴェントを行ないま...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://site-zero.net/blog/">
        <![CDATA[『SITE ZERO』責任編集者・田中純氏をお招きして下記のイヴェントを行ないます。
直近のご案内となりましたが、皆様のご来場をお待ちしております。

歴史工学家・中谷礼仁氏、ランドスケープデザイン・石川初氏、建築史・清水重敦氏、同・御船達雄氏、写真家・大高隆氏を中心に、各分野の研究者が集まった「瀝青会」は、1年前より今和次郎『日本の民家』の調査地再訪を目的として活動を続けています。
これまでの研究成果と調査経緯は『10＋1』No.43─48（連載中）「『日本の民家』再訪」、<a href="http://tenplusone.inax.co.jp/project/kon/" target=blank>10＋1 web site「BLOG・再訪『日本の民家』」</a>でお読みいただけます。

調査の旅は現在も続いていますが、再訪予定地のおよそ1/2を巡ったいま、田中純氏（表象文化論）、菊地暁氏（民俗学）をお招きしてトーク＋写真（未発表含む）公開イヴェントを行ないます。

ご興味のある皆さまは、下記要領にてお申し込みのうえ是非お越しください。


■テーマ：今和次郎『日本の民家』再訪／民俗誌と写真

■開催日：2007年9月18日（火）19：00〜（21：00予定）

■場　所：<a href="http://inaxginza.info/access/index.html" target=blank>東京・京橋INAX：GINZA  7階  クリエイティブスペース</a>
※ 近くに駐車場がございませんので、公共機関をご利用ください。

■出演者：
　- 田中純（表象文化論、東京大学准教授、『都市の詩学』近刊）
　- 菊地暁（民俗学、京都大学助教、主著『柳田国男と民俗学の近代』）
　- 中谷礼仁（歴史工学家、瀝青会メンバー、早稲田大学准教授）
　- 大高隆（写真家、瀝青会メンバー）

■参加費：無料

■お申し込み方法
お名前、ご所属、ご連絡先をお書き添えのうえ、「<strong><a href="mailto:info@tenplusone.inax.co.jp">info@tenplusone.inax.co.jp</a></strong>」までメールにてお申し込みください。]]>
        プログラム（予定）

□1部
基調講演：中谷礼仁「瀝青会の射程、日本の民家、日本人の住まい」
特別講演：田中純「写真という方法、宮本常一」
特別講演：菊地暁「民俗写真の系譜学、写真を読む力」

□2部
中谷×田中×菊地×大高：ディスカッション＋写真公開「写真、民俗学、フィールド・ワーク」


［これまでに再訪した調査地］
神奈川県旧内郷村／埼玉県旧大間木村／東京都・甲州街道／徳島県旧日和佐町／徳島県石井町／徳島県旧三縄村／徳島県旧西祖谷山村／愛媛県松山市／高知県南国市／高知県上川口／奈良県生駒山／和歌山県紀ノ川／東京都伊豆大島など
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    <title>「イメージ（論）の臨界：イメージの氾濫を前にいかに思考するか」|阿部真弓</title>
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    <published>2007-08-24T02:00:00Z</published>
    <updated>2007-08-24T02:14:34Z</updated>
    
    <summary>８月３１日の午後、京都にてフォーラム　「イメージ（論）の臨界――イメージの氾濫を...</summary>
    <author>
        <name>阿部真弓</name>
        
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            <category term="研究" />
    
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        ８月３１日の午後、京都にてフォーラム　「イメージ（論）の臨界――イメージの氾濫を前にいかに思考するか」が行われます。
        「　８月末に若手研究者を中心とするフォーラムを京都大学にて開催します。
残暑厳しい時節ではありますが、皆様のご参加をお待ちしております。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　
フォーラムタイトル
「イメージ（論）の臨界――イメージの氾濫を前にいかに思考するか」

日時：　２００７年８月３１日（金）１３時から
場所：　京都大学大学院人間・環境学研究科棟２３３号室
http://www.kyoto-u.ac.jp/access/kmap/map6r_ys.htm
主催：　科学研究費萌芽研究「美術史の脱構築と再構築」（代表：岡田温司）
問い合わせ：　岡田研究室075-753-6546


パネラーおよび発表タイトルと要旨

郷原佳以（東京大学大学院・日本学術振興会特別研究員）

「「逆説的なオブジェ」としての文学言語--ブランショにおけるマラルメとジャコメッティ」

　「イメージのインフレーション」の進行に伴って、再-現前化としての表象概念を批判的に検討し、ある種のイメージ信仰に警鐘を鳴らすことが戦後思想にとっての急務であったとすれば、ここ十年ほどの西欧思想においてはやや別の角度から「イメージ」に光があてられている（『水声通信』２００６年１０月号岡田温司論考）。ディディ＝ユベルマン、マリ＝ジョゼ・モンザンといった狭義のイメージの専門家のみならず、アガンベン、ナンシー、ランシエールといった哲学者が「イメージ」を主題に据えて次々と思索を展開する様にひとつの徴候を認めないわけにはいかない。現代におけるこのような「イメージ」概念再浮上の背後に共通した名前を見て取ることが許されるとすれば、そのひとつはモーリス・ブランショのそれである。このことは一見奇妙なことに思われよう。なぜならブランショといえば「書くこと（エクリチュール）」を視覚的思考から解放し、極限まで純粋化して思考した文学者として知られているからだ。しかし、にもかかわらず彼の文学論はある種のイメージをめぐる思考に貫かれている。だとすれば、つまり、表象＝再現前的な物語の終焉を宣した文学論が、それでもなお、ある種のイメージの思考に行き着くとすれば、この思考が、表象批判を通過した後のイメージ論と響き合うのは不思議ではない。本発表では、遠近法から逃れる「逆説的なオブジェ」の現出を文学言語に見出した文学者ブランショの思考を、現代のイメージ論のひとつの先駆として紹介したい。


橋本一径（東京大学大学院・日本学術振興会特別研究員）

「身体の亡霊たち ――その弔いを目指して」　

　1930年代に渡米したオーストリア出身の精神科医ポール・シルダーは、1950年に初版の刊行された書物『人体のイメージと見た目（The Image and Appearance of the Human Body）』のなかで、事故などで手足を失った人々が、なおも自らの手足の存在を「亡霊」として感覚するという現象を手がかりに、身体イメージの主観的なステータスについての分析を行うだろう。一方、1920年代のボストンでは、霊媒師マージェリーが、自らの呼び出した心霊 「ウォルター」の指紋をせっせと採取し、降霊会の観客たちにおみやげとして持ち帰らせることになる。本発表は、近代において身体に憑依を始めた、様々な亡 霊たちをめぐる考察である。亡霊とは「死者」の蘇りであると仮に定義するなら、本発表はその「死」を、19世紀の医学 的言説に求め、「殺害」の現場を特定することによって、「弔い」の行為とすることを目指したい。


阿部真弓（ボローニャ大学美術史専門課程）

「タイムラグ――イメージに包囲される絵画」

　１９１１年。「透視図法の黄昏」にあってなお、デキリコの形而上絵画は未だ「甘美な遠近法」とともにある。伝達、移動、情報の、新しく、巨大化した装置・媒体、それらがもたらす距離と心理の変容を高らかに謳った未来主義において、ウンベルト・ボッチョーニやジャコモ・バッラら画家たちは、異質な「時間」の出現を知覚しながらも、新しい「世界感覚」や「イメージの感情的価値」をあくまでも絵画と彫刻において再現しようと試みていた。「機械的自然」の時空が画布のうちに到着しようとする時、画面はあたかも映画的なショットを模しはじめる。描かれた像は自らの物質性とイメージとの近似性との間で宙吊りとなってはいなかったか。あるいは「運動の表象」という探究における絵画の致命的な遅れ。象徴主義的精神と形式に対する「時代遅れの忠誠心」。かくも人間的なこれらのタイムラグに関わる形象を分析する。


千葉雅也（東京大学大学院・日本学術振興会特別研究員）

「ドゥルーズと可塑性」　

　形作ること／形を超えること――とりわけ『ザッハー＝マゾッホ紹介』 （1967年）において、マゾヒズム／サディズムの差異に重ねられ たこの対比は、ドゥルーズ哲学の根本的ダイナミズムである「潜勢的なものの現勢化」と密に関わっている。本発表は、この対比が表現しているもの、すなわち「形態」そして「形式」（forme）の「可塑 性」（plasticite）という問題系が、存在論と美学のドゥルーズ的な合流点においてどのように構造化されているのかを検討したい。そ のため、前掲『マゾッホ紹介』の細部から『差異と反復』（1968 年）の根幹を問い直すという読解手法をとったうえで、『フランシス・ ベーコン――感覚の論理』（1981年）など、後期の芸術論についても考察することになるだろう。その過程で、カトリーヌ・マラブーの哲学における「可塑性」概念とドゥルーズを比較することも試みたい。


鯖江秀樹（京都大学大学院・日本学術振興会特別研究員）

「グラムシと強迫的な影としてのイメージ」

　ひとつの実験的な試みとして、「イメージ」という語に沿ってアントニオ・グラムシの 『獄中ノート』を解読すると、彼の立場からして現実には想像することすらありえない（あるいは、あってはならない）矛盾した解釈や認識（たとえば「国家なき国家のイメージ《immagine di Stato senzaStato》」）を指示するために、その語が用いられているのがわかる。それとは逆に、家族に宛てた手紙でこの獄舎の思想家は、同じく歴史に対するイメージや幻想を示唆しつつ、「死んだもの（cose morte)から解放されるのは、残念ながら難しいのです」と記した。イメージに対するこの両義的で強迫的な立場は、グラムシを同時代に書かれた批評言説へと駆り立てる契機となったのではないか－－今回は、近年の視覚文化研究の制度化にともなって再浮上してきた「言葉とイメージ」という、古典的ではあるがきわめて意義深い問題系を念頭におきつつ、グラムシと当時の言説、イメージが切り結ぶ複雑な関係を捉えなおしたい。


岡部宗吉（京都大学大学院・博士後期課程）

「音・イメージ・言葉」

　音楽の本質は言葉を超えたところにあるといわれる。たしかに、音楽または音を聴いた印象を言葉や視覚イメージに置き換えるのは難しい。とはいえ、その困難な作業に取り組む者はいつでも存在するし、そもそも、「音楽は耳を澄ませて聴くもの」という音楽観があまりに一面的で近代的なものであることも事実である。そのことは、かつて西洋において音楽が数学的四科に数えられていたことを思い出せば十分だろうし、音楽を聴覚以外の感覚と交差させる試みはさまざまな局面にあまた見出すことができる。たとえば16世紀のマドリガーレやJ.S.バッハの作品にみられる、歌詞の各単語の意味を楽譜上で視覚的にあらわす手法、あるいはリストのピアノ曲におけるアクロバティックな手の運動など。そうした具体例をとおして、いかに音楽学の側から「イメージ」の議論に切り込むことができるか、探ってみたい。


岡本源太（京都大学大学院・博士後期課程）

「時をともにする――イメージの経験と認識についての試論」

　イメージを眼差す。そのときわたしたちは、イメージにおいて現在を経験するのだろうか、それともイメージをとおして過去を認識するのだろうか。イメージとして見られるのは、現在にある作品なのだろうか、それとも過去にあった営為なのだろうか。とりわけ美術史がつねに直面せざるをえなかったこの問いの消息を、この機にしばしたどってみることにしたい。とはいえ、実のところ、この問いはイメージを眼差すことのうちですでに答えられてもいる。この問いはそもそもありえないのだ。というのも、イメージを眼差すことのうちでは、過去と現在は分断されず、現在の経験と過去の認識は混淆しており、いわばひとつであるからだ。そのとき、あらためて問うべきものとして姿をあらわすのが――ダニエル・アラスが「アナクロニックな同時代性」という語で示唆したように――「同時性=同時代性」の問題だろう。同時性=同時代性、つまり時をともにすることは、単純に現在という同じ時点にあることではありえない。それはむしろ、相互作用的な共存のことであり、見えているものと見えていないものが変転しゆくアナクロニズムの過程なのではないだろうか。


唄邦弘（神戸大学大学院・博士後期課程）

「バタイユにおける供犠的イメージ」

　バタイユの生涯には、最も「決定的な役割」を果たしたと言われる一枚の写真が存在する。バタイユにとって、そのイメージは暴力的な苦痛と魅惑的な恍惚の感情を引き起こすイメージだった。そこには、「見る」という激しい欲望が働いている。しかしバタイユの視覚は、夜の闇の中で絶えず挫折させられ、その欲望は、恐怖の叫びとなる。それによって見る＝知るという人間の理性的行為は、叫びをあげるという動物的な行為へと開かれる。バタイユがアセファルのイメージによって示した人間的理性の放棄は、こうした両義的な体験の中で捉えられなければならない。バタイユにとってそれは、人間的存在でも動物的存在でもない、至高の存在なのである。本発表の目的は、まさにこうしたバタイユの特異な体験を、彼の写真イメージを介して引き起こされる瞬間的な身ぶりを捉えることによって明らかにすることにある。


司会　多賀健太郎（大阪大学大学院・専任講師）

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　」
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    <title>澁澤龍彦——幻想美術館｜田中純</title>
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    <published>2007-05-12T09:54:36Z</published>
    <updated>2007-05-12T10:10:27Z</updated>
    
    <summary>埼玉県立近代美術館で開催中の「澁澤龍彦††幻想美術館」へ。 シブサワの呪縛圏から...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
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    </author>
            <category term="展覧会" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://site-zero.net/blog/">
        埼玉県立近代美術館で開催中の「澁澤龍彦——幻想美術館」へ。
シブサワの呪縛圏からはすでに遠いこともあり、醒めた感慨を抱く。
        <![CDATA[展示の冒頭で示される武井武雄や初山滋の絵本の世界から一生抜け出すことのなかった人なのだろう。
それはもちろん肯定的に言うのだが、翻ってみれば、絵画論に終始、そこから来る限界があり、お勉強の域を出なかった部分もあるということを否定できない。
スワーンベリを偏愛していた、というところにも、それは顕著に表われている。

鎌倉文化人のサークルめいた60年代「異端」文化が、急に色褪せて、何やら非常にセクト的なものに見えてしまうのは何故なのか。
澁澤自身もどうも無理をしているように見えてならない。

基本的に博物誌、玩物喪志の人物であるところに惹かれた、と、今にしてわかる。
表現者としては、晩年の幻想譚が、やはり、一番懐かしい。

オマージュとして
<a href="http://site-zero.net/blog/imeges/DSC_0760.php" onclick="window.open('http://site-zero.net/blog/imeges/DSC_0760.php','popup','width=1045,height=799,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://site-zero.net/blog/imeges/DSC_0760-thumb.jpg" width="156" height="120" alt="" /></a>
memento mori]]>
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    <title>北京郊外・宋庄の芸術家村｜田中純</title>
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    <published>2007-03-27T08:30:29Z</published>
    <updated>2007-03-28T10:38:50Z</updated>
    
    <summary>３月25日、北京中心部から車で１時間弱のところにある宋庄（宋荘）の芸術家村に、秋...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
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    </author>
            <category term="イベント" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://site-zero.net/blog/">
        ３月25日、北京中心部から車で１時間弱のところにある宋庄（宋荘）の芸術家村に、秋山さんの知人であるパフォーマンス・アーティスト、王楚禹氏を訪ねる。王氏とは前日、北京のアート地区798の画廊オープニングでお会いしていた。彼はこのオープニングを飾るパフォーマンス連続公演のキュレイターである。
        <![CDATA[パフォーマンス公演のひとつ。
<a href="http://site-zero.net/blog/images/IMG_0564.php" onclick="window.open('http://site-zero.net/blog/images/IMG_0564.php','popup','width=800,height=1066,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://site-zero.net/blog/images/IMG_0564-thumb.jpg" width="120" height="159" alt="" /></a>

参加したアーティストたち。
<a href="http://site-zero.net/blog/images/IMG_05911.php" onclick="window.open('http://site-zero.net/blog/images/IMG_05911.php','popup','width=1066,height=800,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://site-zero.net/blog/images/IMG_0591-thumb.jpg" width="159" height="120" alt="" /></a>

宋庄は恐ろしく広大な土地で、そこにアーティストたちの自宅・アトリエや美術館が点在している。王氏や友人のアーティストたちとそのいくつかを見て回る。

<a href="http://site-zero.net/blog/images/IMG_0627.php" onclick="window.open('http://site-zero.net/blog/images/IMG_0627.php','popup','width=1066,height=800,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://site-zero.net/blog/images/IMG_0627-thumb.jpg" width="159" height="120" alt="" /></a>
<a href="http://site-zero.net/blog/images/IMG_0650.php" onclick="window.open('http://site-zero.net/blog/images/IMG_0650.php','popup','width=1066,height=800,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://site-zero.net/blog/images/IMG_0650-thumb.jpg" width="159" height="120" alt="" /></a>
手前の左から二人目が王氏。

道路沿いに見つけた奇妙な建物。何かの賞を受けたアメリカ人建築家の作品だというが不詳。竣工後３年経つのに、何にも使われていないという。
<a href="http://site-zero.net/blog/images/IMG_06281.php" onclick="window.open('http://site-zero.net/blog/images/IMG_06281.php','popup','width=1066,height=800,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://site-zero.net/blog/images/IMG_0628-thumb.jpg" width="159" height="120" alt="" /></a>

王氏の話のなかで、政権の「正統性」ないし「正当性」という観念に行き当たる。
正統にして正当な権威が天皇制というかたちで曖昧に保証されているかのような日本にあっては、この問い自体が先鋭化しないのではないだろうか。798のイベントでパフォーマンスを演じた日本人アーティスト（いずれも女性であったことは象徴的）が、シャーマニズムを連想させるような儀礼を上演していたことも、その意味では示唆的なように思われた。

対して、彼の地ではパフォーマンスとは直接的な「政治」行動なのだろう。
翻ってこの地では、芸術による「国家論」とは、高度に知的な議論ではありえても、パフォーマンスにはなりえない。
]]>
    </content>
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    <title>南京の先鋒書店（Librairie avant-garde）｜田中純</title>
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    <published>2007-03-24T01:02:55Z</published>
    <updated>2007-03-28T10:34:48Z</updated>
    
    <summary>南京大学の表象文化論集中講義のため、中国・南京市に滞在中。 今日は、今回の集中講...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
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            <category term="イベント" />
    
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        南京大学の表象文化論集中講義のため、中国・南京市に滞在中。
今日は、今回の集中講義に同行した助手の秋山珠子さんの紹介で、南京を代表する人文社会系の書店先鋒書店のオーナー、銭曉華氏にお会いした。
        <![CDATA[2004年秋の初来訪時にも、たまたま宿泊したホテルの目の前にあって、地下駐車場を大胆に使った広大な売り場に強い印象を受けた書店。
昨年もお会いしてお話をうかがった。
今回は学者や芸術家が多く住む地域にオープンした新店舗を案内していただく。

日本で言えば青山ブックセンターか。
秋山さんに訳してもらいながらうかがったお話によると、オーナーは今後も知識人のための会員制のサロンのような書店を作りたいなど、旺盛なアイディア。
新店舗の前で。
<a href="http://site-zero.net/blog/images/IMG_0549.php" onclick="window.open('http://site-zero.net/blog/images/IMG_0549.php','popup','width=800,height=600,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://site-zero.net/blog/images/IMG_0549-thumb.jpg" width="160" height="120" alt="" /></a>

本店の店内（2006年撮影）。
<a href="http://site-zero.net/blog/images/DSCF0151.php" onclick="window.open('http://site-zero.net/blog/images/DSCF0151.php','popup','width=800,height=1066,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://site-zero.net/blog/images/DSCF0151-thumb.jpg" width="120" height="159" alt="" /></a>

インターネットによって、ネットワークが容易に築かれたようでいて、共有する空間がかえって失われたように見える状況は、東京のほうが深刻かもしれない。
漫然と無駄な（目的のない）時間をそこで過ごすことができる「市中の山居」のような空間は、今だからこそ、必要だろう。]]>
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    <title>日本生物地理学会第62回年次大会シンポジウムに参加します｜田中純</title>
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    <published>2007-03-17T13:41:36Z</published>
    <updated>2007-03-17T14:28:33Z</updated>
    
    <summary>「進化と系譜：ツリー，ネットワーク，視覚言語リテラシー」 オーガナイザー・司会：...</summary>
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        <name>田中純</name>
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            <category term="イベント" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://site-zero.net/blog/">
        <![CDATA[<a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/tbsj/meeting/62nd/program.htm#sympos">「進化と系譜：ツリー，ネットワーク，視覚言語リテラシー」</a>
オーガナイザー・司会：三中信宏（農業環境技術研究所／東京大学大学院農学生命科学研究科）

日時：2006年4月8日（日）13:00〜15:30
場所：立教大学（豊島区西池袋）
このシンポジウムについては、非会員の参加も自由とのことです。

演者・演題：
13:00 - 13:30
　三中信宏（農環研／東大・院・農生→website）
「ツリーとネットワーク：系図言語とそのリテラシー」

13:30 - 14:00
　中村雄祐（東大・院・人文社会・言語動態→website）
「現代世界における「リテラシー」と生存」

14:00 - 14:30
　細馬宏通（滋賀県立大・人間文化→website）
「絵の宛先の革命 — 郵便改革と絵はがきの登場 — 」

14:30 - 15:00
　田中　純（東大・院・総合文化・超域文化科学→website）
「イメージの／イメージによる系譜学：人文学の図像的転回をめぐって」

15:00 - 15:30 総合討論
]]>
        
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    <title>SITE ZERO　進捗状況｜田中純</title>
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    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://site-zero.net/_tool/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=139" title="SITE ZERO　進捗状況｜田中純" />
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    <published>2007-03-17T13:36:01Z</published>
    <updated>2007-03-17T14:28:33Z</updated>
    
    <summary>懸案は終えて、ようやく先が見えてきたといったところ。 ...</summary>
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        <name>田中純</name>
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            <category term="SITE ZERO" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://site-zero.net/blog/">
        懸案は終えて、ようやく先が見えてきたといったところ。

        岡崎乾二郎さん、中谷礼仁さんとの座談会を終えて、あとは連載などの最終的な調整を待つのみ。
今しばらくお待ちください。
    </content>
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    <title>幼児期と歴史｜田中純</title>
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    <published>2007-03-01T04:56:43Z</published>
    <updated>2007-03-17T14:28:33Z</updated>
    
    <summary>さる任務の待機時間中にジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史』（上村忠男訳、岩波書...</summary>
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        <name>田中純</name>
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            <category term="書物" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://site-zero.net/blog/">
        さる任務の待機時間中にジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史』（上村忠男訳、岩波書店、2007年）[ISBN 978-4-00-025457-1]を読んだ。題名には「幼児期」とあるが、正確には「言葉を語らない状態」あるいは「言語活動をもたない状態」という意味での「インファンティア」であり、本文中では一貫して「インファンティア」が用いられている。
        <![CDATA[この人の思考の速度やリズムが性に合うのか、<strong>書かれていない</strong>行間に刺激されているのか、いつものように発見の多い書物。アガンベンが注視するのはここでもまた、儀礼と遊戯、ベンヤミンの「事象内実」と「真理内実」といったものの境界、「閾」である。ベンヤミンに通じる「敷居学」。
ここは書評の場ではないので、覚え書きとしてのメモのみ。
遊び道具を「純粋状態における〈歴史的なもの〉」と定義づけたり、「ミニチュア化とは歴史の暗号のことなのだ」といった断言には、カッチャーリのロース論を連想させる洞察がある。人間の生と死をめぐる閾の形象としての幼児と亡霊に関する「おもちゃの国」における分析をはじめとして、いずれの章の議論も、この著者らしく構造がきわめて明快でわかりやすい。附論と言うべき「おとぎ話と歴史」で取り上げられるのが、文字通りの「ミニチュア」である「プレセペ（プレゼピオ）」という点も、ベンヤミン的な手つきと言うべきか。ベンヤミン読みのベンヤミン知らず、といった感のある、無粋なベンヤミン論に辟易させられることが多いなかでほっとする。
カルヴィーノらと計画していたという雑誌のための綱領で、アガンベンは西洋文化の特性を、事象内実と真理内実の「ずれ」、修復不可能な断絶に見ている。それゆえに要請される方法が「文献学」だ。「批判的神話学」としての「文献学」。それはあらゆる「批判的・文献学的学科」を指している（彼はそれらを別の場所で「名前なき科学」と呼んでいる）。彼らの雑誌はそんな文献学が詩と同一視されるような場を開こうとするのである。
この綱領に対する「歴史的・文献学的後記」のなかではデュメジルが自己を規定するために用いた「超歴史のフリンジの歴史家」という言葉が引かれている。「超歴史のフレンジ」とは、通時態と共時態とのずれと差異そのものであるような、「歴史的アルケー」（あるいは「共時的歴史性」）にほかならない、とアガンベンは言う（それはデュメジルの比較神話学が「構造」と「歴史」のあいだの揺れ動きを糧としていた、ということだろう）。幼児が遊戯とおとぎ話のなかで神話的な世界を儀礼的なものへの隷属から解き放つように、文献学は神話を儀礼から、歴史をクロノロジーと機械論的図式から救済する。批判的神話学とは文献学が西洋文化に与えた「新しい幼児期」なのだ。
そして、例えば『ホモ・サケル』をはじめとするアガンベンの仕事もまた、バンヴェニスト、デュメジルの系譜に連なる、「文献学」にほかならないのである。

文献学を口にする研究者は多い。
しかし、通時態と共時態とのずれという「閾」において、歴史的「細部」のアルケー的な「構造」を示しうる「読み手」としての文献学者はきわめて少ない、と言うべきだろう。「読むこと」に耽溺しすぎなのだ。そして、それは実は、閾を見失っているということでしかない。]]>
    </content>
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    <title>包まれるヒト｜田中純</title>
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    <published>2007-03-01T03:06:55Z</published>
    <updated>2007-03-17T14:28:33Z</updated>
    
    <summary>佐々木正人編『包まれるヒト：〈環境〉の存在論』（岩波書店、2007年）[ISBN...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
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            <category term="書物" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://site-zero.net/blog/">
        佐々木正人編『包まれるヒト：〈環境〉の存在論』（岩波書店、2007年）[ISBN 978-4-00-006954-0]を書店で見つけて購入。新書のような、入門書のような造りのせいもあり、たちまち読み終える。
        「包囲の哲学」と題された第２章で染谷昌義氏が触れている環境存在論や環境形而上学の動向（とくにバリー・スミスの「穴の存在論」）が興味深い。佐々木氏＋染谷氏＋齋藤暢人氏の鼎談「アンダーグラウンド哲学史」では、ライプニッツ、ホワイトヘッド、パースといった系譜が辿られている。齋藤氏や染谷氏は、身の回りの記述から始める哲学によって、哲学の「オーディエンス」を開拓したり、哲学以外のさまざまなジャンルにおける「周囲の存在」を発見しようとする試みへ目配りする必要性を語っている。そこで染谷氏は今和次郎の考現学に言及しているのだが、それであれば、『パサージュ論』まではもう一歩だろう。十年以上前に『建築文化』に書いたベンヤミン論で、ベルクソンとも絡めて「パサージュの生態心理学」について短く触れたことがあるが、そこでの直感は間違っていなかったと思う（この話題は昨年11月の佐々木氏＋小林康夫氏との鼎談でも取り上げた）。『パサージュ論』で模索されていたのは、19世紀のパリという「環境」の記述法だった。ベンヤミンの言う「イメージ」とは、像ではなく、包囲光的環境である、という着想がにわかに訪れる。

ホンマタカシ氏＋佐々木氏の対談「環境と写真」では生態心理学から見た写真史がざっくりと語られている。それはそれで面白いのだが、気になるのは、ギブソンが写真をどう論じたかではなくて、ギブソンが自著のなかで写真をどう使ったかのほうだ。つまり、写真における生態心理学的知覚以上に、写真によって包囲された環境こそが問題ではなかろうか。その点で、自分の生活全体を撮り続けるヴォルフガング・ティルマンスという写真家には要注目。ついでに言えば、ブレッソン流の写真の「決定的瞬間」には周知の通りの美学的な前史があることを思い出させられた。そうした点を含め、厳密に語り出せばきりがないテーマなので、やや物足りなく感じられるのは仕方のないところだろう。

青山真治氏の「映画にとって身振りとは何か」はアガンベンの引用から始まっている。そして、青山氏による「定式化しえないカオス状態の自他が織り成すレイアウトを、曖昧な感覚によってフレーム化＝統合する、というほとんど賭けに近い試み、それが映画の造形であるとしか言いようがない」という見事な断言。しかし、末尾で映画をテレビと対比したうえで語られる、テレビはどんなに画質を高めたところで、電気信号という技術的な性格上、「身振り」の触知は不可能である、という断定のほうはよく理解できない。こんなふうに映画を擁護する「身振り」がなぜ殊更に必要なのだろうか。

全体として、空間的な「包囲」をめぐる考察や記述の試みについての展望はほぼわかった。では、時間はどうなのか。予感や余韻とは、いったいどんな時間性をもった「環境」との相互作用なのか。そして、記憶や歴史はどうなのか。過去の環境を再構成し記述するための方法論とはどのようなものでありうるのだろうか。例えば、ベンヤミンが屑拾いに譬えたミクロロジー——そのひたすらな蒐集癖が目指したものとは、いわば「包囲の歴史」といったものではなかっただろうか。
「包囲」や「環境」を知覚や自然といった文脈から歴史の文脈へと移し入れること、いや、むしろその狭間——自然史——における「包囲」および「環境」の思考へと連想は誘われてゆく。
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    <title>重力｜田中純</title>
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    <published>2007-02-24T08:54:25Z</published>
    <updated>2007-03-17T14:28:34Z</updated>
    
    <summary>新刊の鈴木一誌『重力のデザイン：本から写真へ』（青土社、2007年）[ISBN ...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
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    </author>
            <category term="書物" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://site-zero.net/blog/">
        <![CDATA[新刊の<strong>鈴木一誌『重力のデザイン：本から写真へ』（青土社、2007年）</strong>[ISBN 978-4-7917-6320-7]を読む。]]>
        森山大道論に目を通すために買ったのだが、読みやすいこともあり、半日で読了。
書物のデザインをめぐる考察が大変面白い。日本語の横書きについて、右横書きは一行一行の縦書きと見立てることで対応が計られたのに対し、左横書きは「横転縦書き」の各文字を、横転の逆方向に回転させ、正立へと戻したのではないか、と推理している。つまり、文字体系としては横転を受容しない代わりに、90度の回転を「一文字」というユニットの内部でおこなっているのである。左横書きを読み書きする過程には、この変換操作が組み込まれている。
その他、マンガの吹き出しや映画の字幕に句読点がない理由や欧文におけるイタリック体の効果や使い分け、日本語のヨコ組本文組版はプロポーショナルに組まれるべきであるといった仮説など、随所に卓見が散りばめられている。とくにアクチュアルなのは、リニューアルされた講談社現代新書の装丁からは「無料」の印象を受けるという感想から出発して、「本が売れない」という事態は、「無料」のムードが漂う装丁が書店を埋めている状況と関わりがあるかもしれないと示唆され、ブック・デザインのポイントを有料と無料の仕切りをいかに管理するかに見出している点だろうか。
自宅書庫の水没事件に発して、書物と水の関係を考察したくだりでは、「書物は微細な気流に包まれている」という、思いがけなくも美しい命題が語られている。ページは湿度や温度の変化のなかで呼吸しているのだ。本書の魅力は書物が生命体のように、ヒトを含む環境と相互作用するさまを緻密に描き出しているところにある。逆に言えば、それは、人間が書物のどのような細部からどんなアフォーダンスを引き出しているか、という生態心理学的な問題を扱っている、ということでもある（著者は佐々木正人氏の『レイアウトの法則』のデザイナーでもあり、本書でも佐々木氏の論考が参照されている）。
「重力」という主題が、書物から写真にいたる本書の全体を貫く、そうした生態学的なアプローチと関わっていることは言うまでもない。荒木や森山の写真を論じた部分もそれは一貫しており、一定の説得力をもっている。とりわけブリューゲルの《雪の狩人》との類似から説き起こされる森山大道論は力作である。
ただし、翻ってみれば、重力が地球上のすべての生物にとって生存の基本的拘束条件である以上は、それは容易にすべてを論じることができる、単なる符帳にもなりかねまい。個々の分析の鋭さは認めながらも、概念のこうした汎用性に感じた疑問が最後まで拭えなかった。著者の目論見から外れることを承知で書けば、より精緻に、そして荒木や森山といった写真家という主体と関連づけることなく「写真の生態学」を語るための概念装置が必要だろう。
著者自身のデザインによる書物の佇まいは、本文の紙質やレイアウトに始まり、本体およびカヴァーの装丁にいたるまで隙がなく、しかし同時に、まさに「微細な気流」を感じさせる温もりもある。

ついでながら、必要があって昨日部分的に再読した後藤武・佐々木正人・深澤 直人『デザインの生態学：新しいデザインの教科書』（東京書籍、2004年）は、文字通り学生向けにはふさわしい教科書的な情報が詰まっていて、そこは「有料」の印象を強めているものの、通読するには視認性が悪いレイアウトだった。
なおそこには、後藤氏が理論的な立場からの「鳥」の役割、佐々木氏や深沢氏は現場の「虫」の役割といった分担の構図が当初はあったのだが、のちに後藤氏も建築家として「虫」的なことがわかった、といった裏話が書かれていた。揚げ足取りかもしれないが、理論が単に鳥瞰的で虫的な細部を見ないというのは、それこそ、「鳥」の生態学を無視した見方だろう。鳥だからこそ見える大地の肌理もあるはずだ。
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    <title>ジョヴァンニ・モレッリの埋もれた著作｜田中純</title>
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    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://site-zero.net/_tool/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=2/entry_id=133" title="ジョヴァンニ・モレッリの埋もれた著作｜田中純" />
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    <published>2007-02-23T13:57:18Z</published>
    <updated>2007-03-17T14:28:34Z</updated>
    
    <summary>モレッリは画家が意識しない細部表現を通じた作品の鑑定技術を開発した人物として知ら...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
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    </author>
            <category term="書物" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://site-zero.net/blog/">
        モレッリは画家が意識しない細部表現を通じた作品の鑑定技術を開発した人物として知られている。彼が学生時代に偽名で著わした二つの著作を編纂した書物を入手する。
        <![CDATA[<strong>Giovanni Morelli: <em>"Balvi magnus" und "Das Miasma diabolicum". Giovanni Morellis erste pseudonyme Veröffentlichungen: "Balvi magnus" und "Das Miasma diabolicum"</em>. Herausgegeben und mit einer Einleitung versehen von Jaynie Anderson. Würzburg: Königshausen & Neumann, 1991.</strong> [ISBN 3-88479-507-4]

タイトルを試みに訳せば、『バルヴィ大王』と『悪魔の瘴気』となろうか。著者名のない『バルヴィ大王』は1836年にミュンヘンで25部が私家本として刷られ、トラウゴット・ゴットヒルフ・シュネック（Traugott Gotthilf Schneck）の遺稿をニコラウス・シェファー（Nikolaus Schäffer）が編集したという触れ込みの『悪魔の瘴気』は、1839年にシュトラスブルクの出版社G.Silbermannから刊行されている。『バルヴィ大王』のなかでモレッリ自身はニコラウス・シェファーとして登場しており、この名が『悪魔の瘴気』の編者名として使われたわけである。『バルヴィ大王』の完全な版は１冊のみ、『悪魔の瘴気』も２冊が現存するだけらしい。
前者は、要するに飲み仲間だった学生同盟の面々を描いた戯画を古代の美術作品のようにして解説したイコノロジーのパロディ（「バルヴィ」とはその友人のひとりのあだ名である）、後者は大気中の「悪魔的瘴気」をめぐる自然哲学的、生理学的、薬理学的研究のパロディである。画家の友人たちをもち、美術史に強い関心があった医学生モレッリの両面がそれぞれ反映された戯作と言えるだろう。
大学の教授陣の講義や振る舞いを学生がパロディにすることは1830年代ドイツの流行だったらしい（現代の日本でも変わりないかもしれない——ハスミ文体のパロディを自動的に作成するスクリプトがあったことを思い出す）。ネタもとを知らないわかりにくさはあるにせよ、とりあえずは挿画だけでも楽しめる。

『バルヴィ大王』表紙
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戯画
<a href="http://site-zero.net/blog/images/CCF20070224_00002.php" onclick="window.open('http://site-zero.net/blog/images/CCF20070224_00002.php','popup','width=1135,height=800,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://site-zero.net/blog/images/CCF20070224_00002-thumb.jpg" width="170" height="120" alt="" /></a>

『悪魔の瘴気』より、大人用と子供用のガスマスク。
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特製顕微鏡やガスマスクのフィルターなどのほか、右の二つは聖なるキリスト教徒の女性の胆汁拡大図（下）と邪悪な人物の胆汁拡大図（上）
<a href="http://site-zero.net/blog/images/CCF20070224_00004.php" onclick="window.open('http://site-zero.net/blog/images/CCF20070224_00004.php','popup','width=1135,height=800,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://site-zero.net/blog/images/CCF20070224_00004-thumb.jpg" width="170" height="120" alt="" /></a>

死せるシュネック
<a href="http://site-zero.net/blog/images/CCF20070224_00005.php" onclick="window.open('http://site-zero.net/blog/images/CCF20070224_00005.php','popup','width=1292,height=800,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://site-zero.net/blog/images/CCF20070224_00005-thumb.jpg" width="193" height="120" alt="" /></a>
]]>
    </content>
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    <title>マクルーハンと／のSecond Life｜門林岳史</title>
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    <published>2007-02-21T09:06:53Z</published>
    <updated>2007-03-17T14:28:34Z</updated>
    
    <summary>　バイロイト郊外のテュルナウ城で開催された会議「マクルーハン再読」に参加したあと...</summary>
    <author>
        <name>門林岳史</name>
        
    </author>
            <category term="イベント" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://site-zero.net/blog/">
        <![CDATA[　バイロイト郊外のテュルナウ城で開催された会議「<a href="http://mcluhan.uni-bayreuth.de/">マクルーハン再読</a>」に参加したあと、ミュンヘンに滞在している。「21世紀のメディアと文化についての国際会議」と副題が添えられたこのイベントの趣旨自体に必ずしも共感できるわけではない。だが、この「再読」という契機が突きつけてくる「いま」への問いなしにはどんなテクストの読解も意味をなさないのだし、マクルーハンはとりわけそうした対象として与えられている。そういう意味で、さまざまな領域から集まった発表者がそれぞれにメディアの「いま」を問いかけるこの会議から得たものは多かった。]]>
        <![CDATA[　会議からの帰途手にした『<a href="http://www.spiegel.de/spiegel/">Der Spiegel</a>』の最新号では「<a href="http://www.secondlife.com/">Second Life</a>」の特集記事が組まれており、カールスルーエのメディア理論家／アーティスト、ペーター・ヴァイベルがインタビューに答えて、すでに数百万の住民を持つこのヴァーチャルな「第二の生」のキリスト教的な含意について注釈を加えている。その一方でドイツはいまカーニヴァルの季節を迎えており、束の間立ち寄ったバイロイトの街はめいめいに仮装した子供たちであふれていた。「アヴァター」を身にまとった住民たちが住まうヴァーチャルな世界を、年中続くカーニヴァルと理解することもできるだろう。しかしながら、この仮面への連想がそれとともに喚起しているのは、祝祭空間を生起させるこの生成変化の幼年期的な性格ではないだろうか。ネット上のヴァーチャルな世界もいま可塑的な幼年期にある。そして、マクルーハン再読に意味があるとすれば、それはおそらく彼の「理論」を現在のメディア環境に応用することにではなく、彼のテクストを彼の時代におけるメディアの幼年期との出会いとして、一回的な出来事として読むことにあるのだ。
　『Der Spiegel』では、中国、武漢で夜を徹してコンピューターに向かう「Second Life」の住民がこう述べている。「いま再び新しい世界が構築された。いまはパイオニアの時代だ。…いま眠る者はそれだけで罪である。」
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    <title>四方田犬彦「先生とわたし」｜田中純</title>
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    <published>2007-02-17T12:50:30Z</published>
    <updated>2007-03-17T14:28:34Z</updated>
    
    <summary>『新潮』３月号所収。 「師とは脆いものである。」 由良君美の存在の大きさとその悲...</summary>
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        <name>田中純</name>
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            <category term="書物" />
    
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        『新潮』３月号所収。
「師とは脆いものである。」
由良君美の存在の大きさとその悲劇性に触れる。
        四方田氏や高山宏氏との師弟関係について、はじめて詳しく知ることができた。
また、社会学者遠藤知巳氏も由良ゼミ出身という経緯に、何やら知のかたちの継承を見て納得する。
60〜70年代の「脱領域的」な知の運動の背後にいた編集者にして「工作者」、久保覚の存在も大きな発見である。

父である哲学者由良哲次との関係をはじめ、君美にいたる知的な系譜も実に興味深い。
後年になって日本美術や南朝研究に没頭した父とのつながりからは、この作品に名を伏せられたまま登場する人物の父子関係を連想した。

しかし、何と言っても、由良との関係を鏡とし、ジョージ・スタイナーや山折哲雄の師弟論を手がかりに考察される、師と弟子との関係性こそが、この著者にしか書きえない部分だろう。それはあまりに陰翳に富んでいる。
由良をアルコールへの依存にまで陥らせた焦燥の由来と、著者自身が体現している世代の差の振幅のようなものの両者が、グローバル化のもとでの人文知のあり方について考えることを否応なく迫る。

そして、由良との関係をめぐる内省を経たのちに綴られた次のような一節に、自分もまた抱え続けている問題との交錯を見た。
「私見するに、由良君美という存在の再検討は、かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一途を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、もう一度人文的教養の再統合を考えるためのモデルを創出しなければならない者にとって、小さからぬ意味をもっているのではないだろうか。」

（言うまでもなく、以上はこの作品が事実に基づくことを前提としている。それがフィクションを含むかもしれないという点については、判断の材料がない以上、ここでは考慮しない。）[2007.2.18追記]

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    <title>来年度はこんな授業をしようかと｜田中純</title>
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    <published>2007-02-17T04:09:02Z</published>
    <updated>2007-03-17T14:28:34Z</updated>
    
    <summary>夏学期だけの大学院の演習と冬学期のみの学部生向けの演習について、ようやく授業内容...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        <uri>http://news.before-and-afterimages.jp/index.html</uri>
    </author>
            <category term="研究" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://site-zero.net/blog/">
        夏学期だけの大学院の演習と冬学期のみの学部生向けの演習について、ようやく授業内容を考える。
        <![CDATA[大学院（表象文化論演習）はさっそく先日の文献を参考書にして：
人文学のモデルとしての「考古学」と「自然史＝博物誌（Natural History）」について考察する。前者についてはフロイトにおける無意識の考古学的探究、ベンヤミンにおける近代性の考古学、フーコーの「知の考古学」と言説分析などがテーマとなりえよう。導入としてKnut Ebeling und Stefan Altekamp: <em>Die Aktualität des Archäologischen in Wissenschaft, Medien und Künsten.</em> Frankfurt am Main: Fischer, 2004を用いる予定（だが、ドイツ語の能力は履修条件とはしない）。後者に関しては、三中信宏『系統樹思考の世界』（講談社現代新書）を糸口に「系譜学」の方法論について扱いたい。それは博物「誌」から進化論的な自然「史」へのNatural Historyの転換を踏まえ、人文知における歴史の科学性を問い直すことである。前史時代研究への系統学的分析の導入などによって考古学と自然史は方法論的な次元で現に結びつきつつあり、授業では二つの方向からのアプローチを緊密に関連づけたい。夏学期だけで扱うにはいささか欲張りなテーマ設定のため、必要に応じて補講をおこなう。

学部生のゼミ（表象文化史演習）は入門編として：
近代デザイン史研究
１．趣旨：近代デザイン史の基礎知識を修得したうえで、現代における「デザインへの欲望」について考察する。グラフィック、エディトリアル、ファッション、クラフト、プロダクトの各デザイン、および建築などについて、何が「良い」デザインなのか、そのデザインが喚起する欲望（購買欲、所有欲）とは何なのかといった問題を、具体的な対象に即し、表象文化論的に分析することを試みる。
２．授業の方法：文献講読については担当者を決め、レジュメを作成のうえ、レポートをしてもらう。参加者が一学期間に１回は発表をおこなう予定。中心となる文献のほかにも、関連する参考文献などの調査、関連するイメージの収集といった作業が必要になる。そのほかに、各自が対象となる「もの」を絞り、そのデザインをめぐる生産・流通・消費のメカニズムやそこに向けられた欲望の様態について分析した発表を同様の形式でおこなう。
３．評価方法：履修と単位取得のためには、原則として次のすべてを必須とする。1)授業における発表（２回）：全体評価の約50％。2)レポート（8000字）：自分が授業で発表したテーマに関するもの。論文としての形式（註など）を整えて書くこと。締め切りは卒業予定者とそれ以外とで異なる（学期末に指定する）。全体評価の約40％。3)出席点：言うまでもなく、規則的な出席と議論への参加が強く要求される。毎回必ず出席を記録する。全体評価の約10％。
４．授業日程、参考書：授業日程は開講時に示す。教科書：柏木博編『近代デザイン史』（武蔵野美術大学出版局）]]>
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