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vol.0 エステティクスの臨界 CRITICAL AESTHETICS

「古代」が召還されるとき──明治20年代の日本におけるギリシア幻想|小澤京子 2006年07月26日

明治20年代(1887─96)は、条約改正と日清戦争を2大事件とするナショナリズム昂揚の時代であった。同時にまた、日本という国家、ないし日本人なる存在の輪郭を確定し、その歴史を叙述する試みがひとつの最盛期を迎えた時代でもある。このような国史の構築過程では、この国の「起源」をめぐり諸々の言説が湧出した。自らの存在の正統化根拠としての「起源」を希求することは、日本が国家としてその形を整えていくこの時代の、当然の要請だったのである。そして、国家の歴史を語るうえでその起源として措定されたのが、「古代」と名指された時代区分であった。具体的には、強固な天皇制が確立し国家としての統一性と諸制度が整備されるに至った飛鳥時代からとりわけ天平時代に至る時期だ。この「古代」なる時代区分は、規範的かつ理想的な過去としての、また国家の正統性の根拠たる起源としての性質を付与された、きわめてナショナリスティックな概念である。そして、このようにして発見ないし構築された日本の「古代」像の上に、ヨーロッパにおける歴史の「起源」たる古典時代のギリシア(ときにローマ)のおもかげを重ね合わせようとする奇妙な試みが、この時代には頻りになされることとなる。

明治期の国史編纂においては、2つのレヴェルでの「古代」が日本の「起源」として想定され、その復興が志向されている。ひとつは、神話的古代と呼びうる次元だ。ここでは、天皇制の正統化根拠としての建国神話の再現が目指される。山本芳翠をはじめとする洋画家たちによる、古代日本人とギリシア神話の形象が混在するキマイラ的イメージは、この次元に属するものである。もうひとつは、日本美術史の編纂作業における「歴史的古代」の創設である。ここでは、ギリシアを「古代」とする西洋美術史の言説の枠組みが、そのまま承継された。そこに、すでにイギリスやアメリカの歴史学・美術史学の分野で提唱されていた「ギリシア文明東漸説」が、フェノロサらにより移入される。極東の小国の中に、もはや滅亡した西洋の古典古代の末裔を見出す西洋人のオリエント幻想を、日本人が自らのうちに織り込む形で発展したのが、天平文化西方由来説だった。かかる「古代」は、自国の正統化根拠としての「起源」であると同時に、国家の進むべき途を律する規範としても機能していた。このような思潮を担った代表的な人物が、美術史の分野においては岡倉天心、建築史の分野においては伊東忠太であった。

ギリシア(ないしローマ)幻想の波及は、歴史の叙述という分野に限られない。「日本国」や「日本人」も明治期になってから明確な分節化を施された概念であるが、その本質や起源を問う試みが盛んになるのは、この時期になってからである。その象徴が、「日本」という総体について、その風土と風景の美しさを歌い上げた志賀重昂の『日本風景論』であり、またナショナリズム的色彩の強い雑誌『史海』における日本人論の系譜である。

「古代」を視覚化することとは、既に忘却された、あるいはかつて一度も存在しなかった過去の想像的な想起の試みであり、不可視であるはずのものを形象化する営為である。国家や国民の、または歴史の起源とは、無限の後退を引き起こすような、確定不能な点にほかならない。それは非在の点とも言いうるし、あるいは常に語る現在において発生するものであるかもしれない。とまれ、遡行することのできない一点を現前化させるという不可能な試みは、真正さ・純粋さの追及という表面上の目論見に反して、種々のイメージがキマイラのごとく寄り集まった、混濁した「古代」の姿を生み出すこととなったのである。


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