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vol.0 エステティクスの臨界 CRITICAL AESTHETICS

ヴェルナー・ハーマッハー「ヘーゲルの読解行為──『吐き気』をめぐるトロープ操作」|訳=宮崎裕助 2006年07月26日

本テクストにおいては──これはまさにフランス語が好都合なのだが──「トロープ操作(tropération)」★1と私が呼ぼうと思うものについて明確にすることが問題となるだろう。それは、読解のトロープ操作、読解概念のトロープ操作である。ここには[デリダの]『弔鐘』との、かすかな反響が聴き取られよう。

ひとつのきわめて強力な伝統が、読解についての考え方──それが理論体系の対象としてであれ文学テクストの主題としてであれ──に関する西洋的な反省のなかで作動している。問題なのは、〈読むこと〉と〈食べること〉[lireとmanger、lesenとessen、readとeat]とのあいだのアナロジー[類比関係]である。まさにこのアナロジーが、ヘーゲルの全著作──初期の哲学草稿から、諸々の序文や最晩年の講義の諸言明にいたるまで──を、首尾一貫した恒常性をもって貫いているのである。このアナロジーは、読解のメカニズムに関して、通りすがりの比較のうちにも、体系的な叙述のうちにも現われる。たしかに、ヘーゲルの著作においては、アナロジーは、けっしてたんなる外的な比較にとどまってはいない。それは、諸々の主題的および形式的特徴が、自己自身に関係すると同時に相互に関係し合う仕方でひとつに結びつくような、統一のロジックに従っている。したがって、たんにヘーゲルのテクストを読解しさえすれば、〈読むこと〉についての読解を揚棄することができる、ということではない。ヘーゲルのテクスト自体が、すでに自己反照的な読解、思弁的な対話的読解[dialecture]を扱っているのである。それゆえ問題なのは、一方を他方へと、アナロジーの形式をその内容へと、あらためて結びつけ直すことである。そのさい、レゲイン[legein: とり集めること]、収穫すること、読むことにおいて、また収集[collection]、共謀[collusion]、衝突[collision]等々のあらゆるロジック、あらゆる弁証法において、ロゴス、〈節理〉(Fuge: 継ぎ目)の働きが開始せずにはいない。つまり、そのようなロゴス、節理という語に告知されている〈結集〉が問題になるのだ。この〈節理〉はまた、あらゆる解釈学、あらゆる理論──たとえば文献学の──のただなかで開始する。思弁的弁証法とその開始[開口部]との結びつきが問題なのであり、それは、まさに口唇性によって特権化された隠喩系によってもたらされるのである。とりわけこうしたことが、『プレーローマ』と題された拙著の主題であり、この著作は、ヘーゲルが1796年から1800年のあいだに著した諸テクストの新版への序文として出版された★2。以下の抜粋は、このテクストからとられている。

では、なぜ読解のトロープ操作が問題なのか?

単純化して言えば、概念に即した読解と、口唇的なメタファーに即した読解との、二重の読解しかない。ところで、ヘーゲルの体系が狙いとしているのは、トロープ[譬喩]の思弁的否定と、純粋な概念操作によるトロープの揚棄である。しかしながら、この操作を構造化しているのは、ふたたびトロープの図式なのである──そうでなければ、体系全体の同質性は保証できなくなるだろう。とはいえ、概念操作は、たとえ表向きトロープの特徴のもとになされた読解の場合であろうと、そうした読解そのもののうちにも作動している。概念操作は、感覚作用のプロセス、つまり他者理解を目指すことで自己自身の感覚=意味を取り違えてしまう先行理解においても、等しく作動しているのである。概念操作がすでにメタファーについての読解において作動しているのだとすれば、この操作を概念形式に適応させようとしたり、形式的な体内化を実体的な理念化へと変形しようとしたり、トロープを概念操作へ翻訳しようとしたりするような、いかなる試みも、過剰な洞察を意味していることになる。この過剰さは、ヘーゲルによれば、トロープも概念操作も、そして当の洞察の弁証法的な体系性をも、迷走させ逸する危険を冒すという当のものだ。トロープ操作とは、したがって、修辞学の企図も、読解の行為遂行論の企図も踏み越えるのであり──これはポール・ド・マンへのオマージュだ──、トロープと概念操作との〈継ぎ目=節理〉において、一方を他方によって相互に始動させ、両者を不可能にいたらしめる、そうしたものの方に向かうのである。

★1──これは、フランス語で「trope」 (転義、文彩、譬喩等の意)と、「opération」(操作、手術等の意)との合成語である。また後出のように「あまりに……すぎる」「過剰」を表わす「trop」の意味も含んでおり、「過剰トロープ操作」等とも(過剰に)訳せるだろう。
★2──"pleroma - zu Genesis und Struktur einer dialektischen Hermeneutik bei Hegel" in Georg Wilhelm Friedrich Hegel, "Der Geist des Christentums": Schriften 1796-1800, Ullstein, Frankfurt/M, 1978. 単行本としては、96年に仏訳(Pleroma - dialecture de Hegel, Galilée)、98年に英訳(PLEROMA - Reading in Hegel, Stanford University Press)が出ている。


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