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vol.0 エステティクスの臨界 CRITICAL AESTHETICS

喪のリトルネロ──ジル・ドゥルーズにおいて、出来事の手前に|千葉雅也 2006年07月26日

1995年11月7日火曜日、ジル・ドゥルーズの死から2日後の『リベラシオン』紙に、ジョルジョ・アガンベンは「人間と犬を除いて」と題して短い追悼文を寄せた。そこで思い出されるのはただひとつ、ハイデガー哲学の陰鬱なトーンと対照をなすかのように、「自己享楽 self-enjotment」という不可思議な「喜び」を肯定するその最終講義の姿であった。そこでドゥルーズは、プロティノスとヒュームに依拠しながら、すべての存在は、自己のなりたちに欠かせない諸要素を結びつける「縮約 contraction」のプロセスそのものであると言う。こうした身体形成こそが、最も広い意味で「観想 contemplation」することなのだ──「石はケイ素や石灰質を観想し、牛は炭素、窒素そして塩を観想するわけです」。そこで万物は──ただし「人間と犬は除いて」とドゥルーズは付け加えるのだが──自己に先立つ他者性を無化することなく受動的に主体化し、エゴイズムには陥らない「自己享楽」を愉しむ。他者になるほどに私たちはますます自己になる。だが同時に、喜ばしく自己になるほどに、私たちはますます他者になる──この「同時」とは何時か?

それはじつのところ「現在」である。主著『差異と反復』(1968)は、「時間の三つの受動的総合」という議論において、現在・過去・未来を、それぞれ第一・第二・第三の「受動的総合」という仕立てにより順次説明していくが、あの最終講義のテーマは、そこで現在つまり第一の総合に、ほぼおなじかたちで見出される。さらに遡れば、この文脈はもともと、ドゥルーズ哲学の出発点であった1950年代初頭のヒューム論に由来している。ひとことで言うなら、「経験論」的なものに対するドゥルーズの執着が、成熟期から晩年に至るまで一貫して維持されているのである。しかし60年代を通し、カント哲学の「超越論的」方法を再考したドゥルーズは、一方では経験論の限界を自覚しつつ──しかしヒュームを捨てることなく──他方ではカントにも限界を見ることになる。コペルニクス的転回に部分的に追従しつつ、その彼岸を求めていたドゥルーズは、そこで経験論の喜びを、なかば症候的に思い出し続けるのだ。

それゆえ『差異と反復』の時間論は、第一の総合を肯定しながらかつ超克しなければならないというコンプレクスに巻き込まれる。いわゆる「出来事の哲学」というドゥルーズ哲学のイメージは、現在への固着を振り切って過去と未来へ、第二・第三の総合を急がなければ成就されない。フランソワ・ズーラビクヴィリが指摘するように、第一の総合の自立性に対し、後2者のあいだには連続性がある。それはカント的超越論性のインストール(第二の総合)とその脱構築(第三の総合)という展開であり、これを通し「潜在性」という独自の超越論的次元が確定され、その時間的表出が「出来事」と呼ばれることになる。しかしこうした行論が、いちど超克され、隔てられ──納骨堂(クリプト)に隠されてなお生きている時間、すなわち「出来事の手前」と出会いなおすことになるのは何時か?

翌年の『意味の論理学』(1969)には、出来事への「生成変化」に走り出すアリスがいる。だがそうしたルイス・キャロルの世界よりは遅く、深く閉じられた身体の冥界に、アントナン・アルトーの戦いがあることをドゥルーズは強調した。『差異と反復』にもまた、現在の閉域に生きる「哲学的登場人物 personnage conceptuel」がいる。他者を知らないナルキッソスと、ディアナの裸体に不意撃たれるアクタイオンである。オウィディウス『変身物語』が語るように、ひとたび他者を知ったアクタイオンは「鹿」の姿に変えられ、みずからの猟犬たちに八つ裂きにされる。それが「他者への生成変化」の運命、果てない非人称化の試練だとしても──「人間と犬を除いて」アクタイオンが、おそらくはナルキッソスとともに生きのびるような、もうひとつの生成変化のチャンスは何時、そして何処にあるのか?

『千のプラトー』(1980)が提起した「リトルネロ」という技術、ささやかな自己の「領土」をつくり、かつ出口を開く反復の技術、それはエゴイズムなき自己享楽の、ひとつの決定的な場所=時間である。テリトリーを表現する小鳥の歌、夜道にひとり口ずさむ子供の歌、それは生きのびた「鹿への生成変化」の行方において、ドゥルーズ哲学の幼年期へと喪を捧げることになるだろう。


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