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vol.0 エステティクスの臨界 CRITICAL AESTHETICS

エステティクスの臨界|田中純 2006年07月26日

美学でも、芸術学でもなく、エステティクス──感性の学。その臨界を問うこととは、思考の生理を探ることにほかならない。エステティクスがそもそも、理性的認識に対して低級なものと見なされてきた感性的認識の学なのだとすれば、この「低級なもの」の「高級な」完全形態としての「美」に向かうのではなく、より「低い」ものへ、下へ、底へ、感性の最下級の限界へ、おぞましく無気味なもの、底の底に淀む不定形なものへと落下し、沈み込むことに、そのひとつの極限的な可能性は宿ることになろう。フロイトやバタイユの思想を重要な参照点とするような不定形なもののエステティクス。しかし、それはひとつの極点にすぎない。エステティクスの思考がもつ潜勢力を解き放つために、その臨界をなすさまざまな系譜をここであらたに発掘してみたい。

この臨界の探究は、美学と相補的な芸術史とは異なる、感性的な知の考古学を必要とするだろう。例えば、美術史ではなく、歴史のイメージ分析が、社会的諸力と身体、そして、想像力の交錯したところに形成される文化的装置の作動様態を浮き彫りにする。しかし同時にそこでは、歴史自体がイメージによって切り裂かれ、不定形な、あるいは多形的なキマイラじみた症候群のなかに、アナクロニックな断絶を垣間見せるに違いない。

エステティクスの臨界が主題とするのは、観想的な知よりもむしろ、恐怖に、快感に、パトスに貫かれて、リズミカルに打ち震えたり、吐き気に襲われたりする身体の知/非知である。それは受動的な身体、なんらかの力に支配されつつ、それに抵抗している身体だ。エステティクスは、それゆえ必ず、身体をめぐる権力の政治(その歴史とテクノロジー)に関わらざるをえない。「政治の美学化」に対する「芸術の政治化」というベンヤミンのテーゼは、だから、この身体を中心とした「政治のエステティクス」において再解釈されなければならない(アガンベンの思想的歩みとはまさにそのようなものだった)。エステティクスの臨界で探査される思考の「身振り」は、明示的にではなくとも、このようにして根源的に政治の領域に深く関わっている。

つまり、この臨界とは、エステティクスが危機をみずからの可能性として投企し、「批評」の原理になろうとする中間地帯、昇華も救済も知らない思想がさまようことを積極的に選択した辺境(リンボ)なのである。


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