Index+Summary | 目次+サマリー

vol.0 エステティクスの臨界 CRITICAL AESTHETICS

ハイデガー、資本主義の批判者──経済という隠喩の運命|カトリーヌ・マラブー|訳=千葉雅也 2006年07月26日

ジャック・デリダ指導下でのヘーゲル研究から出発したカトリーヌ・マラブーは、フランス現代哲学の巨星がつぎつぎと没するなか、「可塑性」というキーワードを携えて独自の道を切り開いてきた気鋭の哲学者である。日本においてマラブーの名は、まずは論集『デリダと肯定の思考』(高橋哲哉+増田一夫+高桑和巳監訳、未來社、2001)の編者・執筆者として知られていたが、近年、待望された博士論文『ヘーゲルの未来──可塑性・時間性・弁証法』(西山雄二訳、未來社、2005)が翻訳されるとともに、哲学と自然科学の対話を促そうとする最近の試み『わたしたちの脳をどうするか?──ニューロサイエンスとグローバル資本主義』(桑田光平+増田文一朗訳、春秋社、2005)も紹介され、広い射程をもったその思想はますます注目を集めている。これら2つの著作は、マラブー哲学の剥き出しのエンジンと、そのアクチュアルな作動とを見せてくれるわけだが、しかし後者での資本主義論をより哲学史的なコンテクストに折り返した教授資格論文『ハイデガー変換機──哲学におけるファンタスティックなもの』(2005)は、現時点ではなお未訳のままである。そこで今回、これに直結した2005年の来日講演「ハイデガー、資本主義の批判者──経済という隠喩の運命」を翻訳することで、ハイデガー存在論から新しい経済の哲学、あるいは哲学の経済を描こうとするその手つきを、簡潔なかたちで紹介したいと思う。

この講演でマラブーは、形而上学の「破壊」によって「他の思考」の招来を試みたハイデガー、そこになお閉域を見出し「脱構築」を施すデリダという論争のただなかに踏み込んで、改めてハイデガー存在論の基礎に「資本主義批判」の可能性を肯定しようとする。そこでマラブーが採用するのは、脱構築ではなく「可塑的読解 lecture plastique」と呼ばれる方法である。他方、師デリダの指摘によれば、「経済」(エコノミー)とはつねに自己に帰還し、所有=固有性を維持する円環的運動である(もともとoikonomiaとは、「家 oikos」の「法 nomos」を意味する)。そうした軌跡を裏切って、自己に固有化しえない他者性に出会うためには、ひとすじの再帰的エコノミーから逸脱し散種する「郵便的」状況を認め、むしろ「政治非経済学」を行なわなければならない。しかしマラブーは、こうしたデリダの戦略とは一線を画し、徹底してエコノミーの軌跡に内在したまま、それを「変身」させる方途を探る。


(以下、本文より一部抜粋)しかしながら私は『ハイデガー変換機』のなかで、形而上学の完成とともに、あるいはその後に到来する「他の思考」が、ハイデガーにおいてはひとつの経済に、ともかくもひとつの交換システムに留まっていることを示そうと試みた。そこで私は、等価性つまり妥当性(Geltung)の法によって支配された、形而上学の特徴をなす第一の交換あるいは変換(change)の体制に続いて、別の変換ないし交換の体制が到来していたと主張したのである。形而上学的経済の終焉はただ、もうひとつの経済の到来を準備させていた。こうしてハイデガーによれば、西洋的思考は、第一の置き換え──存在の存在者性(Seiendheit)に対する交換──から生じるのだが、それはみずからの変容、みずからの転換を準備して、まさに出来事(Ereignis)として考えられるもうひとつの変化ないし交換へと場を譲ることになるだろう。それゆえ所有=固有性は、ハイデガーにおいては固有化と脱固有化を同時に意味する出来事(Ereignis)という言葉の戯れにおいて、来るべきものなのだ。固有化と脱固有化という来るべき経済の二重の運動に従って、存在と存在者はたがいに交換しあうのである。つまり両者はまず、たがいに固有化しあい交換しあうのだが、にもかかわらず、無償の取引きという法にしたがうことで同一化することなしにそうするのである。言い換えれば、存在と存在者はたがいに交換しあいながらも、利益を上げることなく分け合うということである。存在と存在者は、みずからに固有のものを、その所有=固有性を相互に脱固有化しあう。たがいに対して脱固有化しあうのである。


ページの先頭へ