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vol.1 〈病〉の思想/思想の〈病〉

No.1 〈病〉の思想/思想の〈病〉 2007年09月21日

〈病〉の思想/思想の〈病〉|柳澤田実


「病」は、現代思想において、主要な思考対象として、刺激的な言説を生産し続けてきた。欧米の現代思想における「病」といえば、M・フーコー、S・ソンタグ、S・ギルマンらの議論がある。彼らは、「病」が社会や権力によって構成された「言説」「隠喩」であることを明らかにし、マイノリティ分析のための方法論を創出した。また、私たちは、E・レヴィナスやJ・デリダやM・C・テイラーが、「アレルギー」「ウィルス」「自己免疫化」を、「他者」を論じる際の概念装置として用いたことを思い起こすこともできるだろう。結局こうした概念もまた、現実の病の「比喩」にほかならない。「病」は、一定のイデオロギーからは解放されながらもなお、「比喩」としての言説を生み続けている。

他方で、実際に「病」の治癒に携わる臨床的立場から発信された思想が存在する。こうした思想潮流は、今日の日本においても独特の存在感を誇っている。精神病理学は、宮本忠雄氏、木村敏氏、中井久夫氏といった個性的な思想家を輩出してきた。とりわけ哲学と精神病理学の接合によって「こと・もの」「あいだ」といった独創的な諸概念を創出し、精神疾患を通じて人間の根本的な態勢を示すことに成功した木村氏、また、その文学的資質を発揮しつつ「予感」「索引」といった語彙によって独自の記憶論を提示した中井氏は、同時代の人文科学にとって、刺激的な存在であり続けている。彼らのこうした「病」に対する態度は、精神疾患を脳の機能不全へと還元する器質機能主義がドミナントな昨今、単純な自然主義に対する重要なオルタナティヴだとも言えるだろう。

精神分析理論においても、臨床と不可分であることにこそその価値を見出す十川幸司氏の議論は、哲学とは異なる新しい方法論構築の可能性を感じさせる。氏は、不可能なものの抵抗に遭うこと、つまり経験的領域と超越的領域のコンフリクトにおいてこそ、精神分析理論は生産的たりうると主張してやまない。十川氏にも大きな影響を与え、「オートポイエーシス」の理論で知られる河本英夫氏は、精神病理学者、精神分析家、さらには身体の障害に立ち向かう理学療法士たちと連携しながら、相互にその活動を触発し合い、果敢に議論を展開させている。「自己の可能性は無限に拡張できる」と主張する河本氏において、「病」は経験の可能性に関わる重要なモメントのように見える。さらに、精神分析と精神病理学の両者を越境しつつ、「症状」と時代の文化的コンテクストをめぐって批評活動を行なう斎藤環氏の活動もまた、さまざまなメディアで目覚しい。

病に寄り添う思想家たちにとって、「病」は「比喩」ではない。さらに、彼らは「病」を超越的・体系的理論に回収することを拒む。なぜなら、現場における治療とは、その都度その都度の試行錯誤、いわば体系化できない経験知の連続であり、また、治療・臨床という態度は、「病」を対象化しきることを許さず、「病」の側から語ることをも要請するからである。こうした「病」の側から語られる「病」は、もはや選択された思考対象ではなく、人間の生の対象化不可能性を示すひとつの事実性として自らを現わす。ここに、「病」が思想を紡ぐ、最も重要な理由がある。臨床という態度を通じ、「病」は、生それ自体について告げ知らせる。事実「病」に寄り添い思考する者たちは、生きることそれ自体について語ることに憑かれているかのようだ。彼らが生み出す理論は、病/生の側から語るという、この極めて困難な試みの軌跡にほかならない。

この特集は、「病」からの思考を、主に精神医学の立場から検討するものである。木村敏氏、河本英夫氏、十川幸司氏、斎藤環氏には、「病」に寄り添い、「病」の側から思考することの可能性について、また、狭い意味での「方法論」になりえない御自身の思考方法について論じていただいた。拙稿は、木村・中井両氏がそれぞれ描き出した「心・こころ」の相貌について論じたものである。そして、編集部からの執筆依頼をお引き受けいただいた社会思想史家・柿本昭人氏には、「脳トレ」ブームとその背後にある権力システムについて論じていただき、医療人類学/身体論をご専門とされる小林昌廣氏には、「闘病記」という文体についての考察をご提示いただいた。橋本一径氏には、病が誕生する現場について写真を媒介に明らかにしていただいた。また、郷原佳以氏の論考は、美術館嫌悪をひとつの症候として捉える視点を提起した応募論文である。特集の最後に位置するインタヴューでは、建築家・藤本壮介氏に、「病の思想」のひとつの具現化である療養所建築について語っていただいた。藤本氏はオルタナティヴモダンを唱える新進の建築家であるが、この特集もまた、近代哲学における二つの主要な態度である自然科学とロマン主義のどちらにも偏重することのない、来るべきアプローチ方法の模索だとも言える。

「病」を日常=正常の外部に置くかつての理解は、病について語ることとロマン主義との共犯関係を一貫して招来してきた。M・フーコーやS・ソンタグは、一九世紀に称揚された芸術的狂気としての「病」を相対化したと言われるが、彼らでさえ、ロマンティシズムを回避することに完全には成功していないように見える。これに対して、病の側からの思考は、「病」にまとわりつくこの厄介なロマン主義を失効させるだろう。とはいえそれは、「病」を自然科学のほうに送り返すことではけっしてない。そもそもロマン主義が科学主義の反動である以上、ロマン主義の否定によって目指されるべきはその前提となっている近代的な世界観それ自体にほかならないはずだ。比喩でも言説でもなく、科学の及ばぬ聖なる不合理としてでもなく、生について思考するための積極的な始点として新たに見出される「病」は、自然科学への従属ともロマンティックなレトリックとも決然と袂を分かつよう、私たちを促すだろう。


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